金がなさすぎる。
近頃はどうも金がなさすぎる、と真剣に悩んでいたのだが、空腹に耐えてじっと考えていると、金がないというのは何も今に始まったことではないことに気がついた。とはいえ自慢できるほどの貧困であったわけでもない。貧困と平穏のちょうど中間あたりに、昔からずっといたのだ。ジャン・ジュネとサルトルの中間あたりに。
ぼくは高校生のころ、家の所有する車が一台ずつ姿を消え、ついに一台もなくなってしまったとき、「これはまずい」と思ったのだ。母親は家の電話がなっても出ないようになり、やがて電話線をきってしまった。このころぼくと兄は両親に『貧乏すごろく』というすごろくを手作りしてプレゼントし、本気で怒られたりしていたから、よほど精神的にまいっていて、(悪い意味で)開放的になっていたんだろう。
とにかく最近も負けじと金はなく、①おばさんに体を売る、②おじさんに体を売る、③誰にもかれにも体を売る、というくらいしか性急に金を手に入れる方法が想像できなかったので(金がないと心の余裕もなくなる)、心をリフレッシュさせるために母親に電話してみた。
(電話してみたというかぼくは家族とはほとんど毎日電話をしているんだが)
母親はいつにもまして上機嫌だった。きくと、執筆していた小説が完成したらしい。
「あんたより先に新人賞とるよ」と母親は言った。ぼくは母親がなぜ小説を書き、新人賞をとるつもりなのか全くわからない。母親がひっそりと小説を書いているという事実を知ったのもつい数週間前だった。
「最近の芥川賞なんかさあ、『きことわ』とか『苦役列車』とか、『共喰い』とかさあ……全っ然おもしろくない。ほんならおかんが書いたるわあ!」という理由で書き始めたらしい。
たとえ芥川賞受賞作品がおもしろくないにしても、なぜド素人のただのおばさんがかわりに作品を書くことになるのだろうか。その責任感は一体なんだろう。
「まあぼくの方が先に新人賞とるけど」とぼくが言うと
「いやあ、それはどうやろう」
「こっちは受賞のスピーチまで考えてるからね」
「それはおかんもや」と母親は言う。
こいつマジやな。授賞式のスピーチまで考えていやがる。
このおばさんは、キチガイのような発言をするが、その内容はどれもぼくそっくりだった。
ぼくはその後、兄に電話した。
電話で兄は、最近の短歌界を憂いていた。
曰く、最近の若手の短歌はびっくりするくらいおもんないらしい。
「やから急遽、新人賞に応募することになったわ。締切まで2週間で60首つくらんといけん」
兄は堕落した歌壇に一石を投じるべく、今から(かなり急いで)短歌をつくり始めるらしい。
母親も兄もぼくも、なぜか仕事とは関係なく文学活動を(絶対的な自信のもとに)やっているわけだ。
母親は6月に、兄は5月中に、そしてぼくも近々、新人賞に応募する。
全員が同時期に受賞し、それぞれ思い思いのスピーチをすることになるとしたら、世の中の文学少年たちはそれをみて「とんだ茶番だ」と思うことだろう。
思えば祖父もそうだった。
祖父も小説をかき、俳句をつくり、同人誌を主催していた。
まだ祖父が生きているころ、祖父の家に遊びに行くと、祖父はいつも必ず、文章を書いていた。小説と俳句を書いては、自らが主催する同人誌に載せていた。文学賞や出版社に送ったという話はきいたことがない。
ぼくのいっていた大学の教授が、『金が無くても、誰にもみられていなくても、誰からも応援されていなくても、もしくは仮に技術が全くなくても、それでもなぜか創作し続けてしまう、そういう頭のいかれた人が芸術家なんです」と言っていたし、村上隆は、自身のつくった会社で働く学生が、厳しさのあまり「ぼくには芸術は合っていないことがわかったのでやめる」といったときに、「芸術はやめるとか始めるとかいうものなのか?合うとか合わないとかいうものなのか?」ということを言っていた。
そういう意味でいえば、ぼくら三代の4名は、よほどいかれた遺伝子を受け継いでいることだろう。
芸術に携わる人が「何のためにつくるか」ということを自問自答するのは常だが、ぼくはそれに自信を持って「遺伝子のせいだ」とこたえることができる。
祖父が亡くなる一年ほど前に、一人暮らしのぼくのところへ母親から電話がきた。ちなみにそのときぼくは(本当に)カフェで小説をかいていた。
開口一番に母は
「歴史上最も強い侍ってだれかわかる?」
「は?」
「いや、歴史上最も強い……」
「は?」
「いや、じいちゃんが、がくならわかるっていうから」
なるほど、とぼくは独りごちた。
「ああ、男谷精一郎やわ」
「オタニセイイチロウ??」
その二人のシュルレアリスティックな通話からさること10年くらい前に、ぼくは祖父の家でその名前を初めてきいたのだ。
ぼくは祖父の家のこたつでごろごろしていて、祖父はこたつで(もちろん)文章を書いていた。
「がくぅ」と急に祖父がいう。本当に唐突に。
「えっ?」
「歴史上、一番、強かった、侍っちゅうのが、誰か、知らんやろう」
ぼくは当時から歴史小説が好きだったので(宮本武蔵かなあ)などと思いながらも、「知らん」と言った。
すると祖父は嬉しそうに口をひろげて笑い、
「男谷精一郎」と言った。
「オタニセイイチロウ??」
全く初耳であったし、会話はそれで終わったし、それ以降二度とその名をきくことはなかったのだが、なぜか、ぼくはそのときのことをはっきりと憶えていた。
そして祖父もそのときのことをなぜか憶えていて、なおかつぼくもそれを憶えているだろうと思ったのだ。
母親曰く、そのとき祖父はボケ始めていて、どうしてもその侍の名前を思い出せなかったらしい。そして「がくなら知っている」と言い、電話させたのだ。
そのときぼくは、カフェで小説を書きながら電話をしながら、ぼくと祖父がぴったりと重なったのを感じた。おそらくその瞬間も、祖父は何か文章を書いていたに違いない。文学者のいかれた遺伝子を持った祖父と孫が、よくわからない侍の名前でつながったのだ。
ほどなく祖父は自然死した。最後に書いた文章は一言、「サイダー」だったらしい。なんてクレイジーなんだ、おじいさん。
そんないかれた遺伝子を撒き散らした震源である祖父をよく言い表すには、彼の書いた俳句を引用する以外には方法がないだろう。
大初日
無神論者も
見て居たり
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2012/05/06
少年よ、舌がなくても喋れ
どんなに興味のある内容を話していても、それがつまらない人間であれば「何言ってんだこいつ?」と思ってしまう。内容どうこうではなく、相手の言葉の奥にある魂のようなものを瞬時に感じ取って興ざめしてしまうのだ。これはおそらく誰にでもあることだと思う。話している素材が面白いにも関わらず会話の歯車が合わず、辟易してしまう。そんなときにぼくたちは「ああ、どうして私たち人間ってこうも孤独なんでしょう」と落ち込んでしまう。非常にしょうもないことだか、そういう風にできている。だからぼくたちは「魂の叫び」なるものを無意識に信仰する。人は記号やその活用法など細々した精密機械のような繊細さでもってコミュニケーションするのではなく、得体のしれない「魂の叫び」に突き動かされるのだ!というようなよくわからない信仰である。
この熱い男気のある、パワフルな言葉は同時にすごく寒くてダサい響きも持っているので、「もっと心から言いたいことを作品にしろよ!」なんていわれた日にゃもう赤面すること山のごとしなのだ。
このパワフル且つダサい「魂の叫び」というものは、どういうものなのだろう。
松本人志がラジオで、「音楽はモノラルで十分だ」というようなことを言っていた。彼によると、彼は綺麗な音やリアルな音の再現や音量などは全くどうでもよく、「良い音楽が聴きたい」という一言につきるのだった。彼は良い音楽が聞きたいのだ。それがモノラルだろうがステレオだろうがサラウンドだろうが簡易スピーカーだろうがイヤフォンだろうが関係ない。
ぼくは人々から魂が失われるかたちを、民主主義のようなものだと理解している。ニーチェという偉い人にいわせれば、民主主義とは、独裁者がいなくなって全員が奴隷になった状態なのらしい。
音楽における民主主義とは、十二音技法とよばれる作曲法に例えることができる。十二音技法とは、オクターブ内にあるすべての音、つまり十二音を平等に使用するという非常に理論的な作曲法である。それまでは調性音楽において「主音」とよばれる独裁者が楽曲の内政をコントロールしていたが、十二音技法においては独裁者は失われ、すべての音が平等になってしまった。こに技法を用いた代表的な作曲家にシェーンベルクがいる。思想家であり作曲家のアドルノは、シェーンベルクについて次のように言っている。
「無調の時代はあんなに自由だったのに!十二音技法を始めてからのシェーンベルクは技法に囚われている。自由になるつもりが逆に疎外されている!」
十二音技法にももちろん調性はない。しかし無調と十二音とはどう違うのだろうか。これまた例え話になるが、十二音技法は独裁者のいない完全法治国家だが、無調とは独裁者のいない無政府状態、スラム街のようなものだ。
ぼくらが英語の勉強をするとき、アメリカ人の発音の変化の法則に苦労させられる。「An apple」は「アン・アップル」ではなく「アナーポー」という風に理解するが、アメリカ人が「アン・アップル」に近い発音でいうときもあるし「アン・ナーポウ」みたいなときもある。一体どうなっている?どういうときにどう発音するのだ?どういう原理に基づいて?となる。
発音は、普通は「音声学」によって指導される。音声学とは、発音の発生原理を解明する学問で、口の中の器官の活用によってこういう発音が出る、というのである。普段LとRの発音の区別をしない日本人に、舌の形などを説明することによって理解させるのだ。
ところがどっこい、この音声学というものによって発音を指導するということは、根本から間違っている。
発音は、いくらその発生の原理をもとめても全く意味がない。そのことについて、言語学のロマーン・ヤーコブソンという人が次のように説明している。
「音声学はわれわれの言語の音を、口、蓋、歯、唇などのさまざまな接触形式から導き出そうとする。だが、こうした調音点が、それだけで、きわめて本質的、決定的であるとしたら、おうむは、われわれとほとんど似ていない音声器官をもつにもかかわらず、どうして数々の言語を忠実に再現できるのか?以上の事実はいずれも、実に簡単な、しかし大多数の音声学的研究によって無視されている結論にわれわれを導く。さまざまな調音を分類しうるためには、いや、正確に記述しうるためには、と言おう、たえず次の問を発しなければならないのだ。つまり、これこれの運動行為の音響的機能は何か?と。」
『舌のない娘について』によると、現在は音声学によって「舌音」と呼ばれ、その発出が、本質的に舌の動きをともなう音として定義されるあらゆる音を、ごく小さな舌しかないのに完璧に発音できる人々について詳細に記述している。
発音についての第一人者である医者のヘルマン・グッツマンによると、ぼくたちが発するほとんどすべての音は(必要であれば)、音響的事実を変えることなしに、全く別のやり方で産出が可能であるらしい。発声器官のひとつが欠けているときは、聞き手に気づかれることもなく、他の発声器官の働きによって代用することができるのである。それは腹話術師の巧みな技術をみたことがあれば、誰でも知っていることだ。
音声学によると「歯擦音」は必ず歯を用いた発音だが、門歯がない人間でも完璧に発音できるということが ウィーンの言語学者アルノルトによって報告されている。彼によると、歯の異常が発声の誤りを引き起こす場合は、決まって主体の聴力に欠陥が見られるらしい。
音声学はただ単に一般的な発生原理を解明しているにすぎない。しかし発音する段階では、その方法は自由なのだ。
このことをヤーコブソンは、「なぜ蛇はイヴに話すことが出来たのか?」という問いによって示している。
うん、つまり、蛇は、人間のような調音器官を持っていないが、「魂の叫び」によってイヴに話しかけたのだ!!
ぼくら日本人は、日本語の発音以外の音は、基本的には「きいていない」のだ。フランス語には二種類の「え」という母音があるが、ぼくらにはほとんどその違いは聞き取れない。それは日本語では「え」は一種類だけであり、言いたいことはそれですべて伝わるからだ。この「言いたいこと」を音素という。正確に言えば、弁別的価値をもった音を音素というのだが、弁別的価値というのは、意味の区別というようなことであり、結局は意味に準ずる発音、ということなのだ。
発音がわるいやつは、耳もわるい。
うまく喋れないやつは言いたいこともない。
一方蛇やおうむは、喋ることに強い意味があった。だから喋れるのだ。
「魂の叫び」とかいうよくわからない言葉は、非常に大切だが、それはなにも得体のしれない幽霊のようなものではない。つまり弁別的価値を持った強い意思、なのだ。
「少年よ大志を抱け」という言葉がどこで誰がどんな経緯で言ったのかは知っているような知らないような感じで、「私には夢がある」や「人民による人民のための……」や「飛べない豚はただの……」や「黙れ小僧!!」のように言葉だけが濃霧のようにじーっと流れては現れる、なんとも思わない台詞になっている。がしかし、「少年よ大志を抱け」という言葉は「魂の叫び」なんかよりずっとしっくりくるし、上の牧師や豚や狼の発言にも同じような大志が感じられるのだ。
民主主義とは奴隷になることではない。奴隷になった人間は何を喋っても「何言ってんだこいつ?」ってなる。
だからモノラルだろうが無調だろうが舌がなかろうが歯がなかろうが、豚だろうが黒人だろうが、ぼくらは言いたいことがあればどうにか言う。
死に物狂いで言うのだ。
この熱い男気のある、パワフルな言葉は同時にすごく寒くてダサい響きも持っているので、「もっと心から言いたいことを作品にしろよ!」なんていわれた日にゃもう赤面すること山のごとしなのだ。
このパワフル且つダサい「魂の叫び」というものは、どういうものなのだろう。
松本人志がラジオで、「音楽はモノラルで十分だ」というようなことを言っていた。彼によると、彼は綺麗な音やリアルな音の再現や音量などは全くどうでもよく、「良い音楽が聴きたい」という一言につきるのだった。彼は良い音楽が聞きたいのだ。それがモノラルだろうがステレオだろうがサラウンドだろうが簡易スピーカーだろうがイヤフォンだろうが関係ない。
ぼくは人々から魂が失われるかたちを、民主主義のようなものだと理解している。ニーチェという偉い人にいわせれば、民主主義とは、独裁者がいなくなって全員が奴隷になった状態なのらしい。
音楽における民主主義とは、十二音技法とよばれる作曲法に例えることができる。十二音技法とは、オクターブ内にあるすべての音、つまり十二音を平等に使用するという非常に理論的な作曲法である。それまでは調性音楽において「主音」とよばれる独裁者が楽曲の内政をコントロールしていたが、十二音技法においては独裁者は失われ、すべての音が平等になってしまった。こに技法を用いた代表的な作曲家にシェーンベルクがいる。思想家であり作曲家のアドルノは、シェーンベルクについて次のように言っている。
「無調の時代はあんなに自由だったのに!十二音技法を始めてからのシェーンベルクは技法に囚われている。自由になるつもりが逆に疎外されている!」
十二音技法にももちろん調性はない。しかし無調と十二音とはどう違うのだろうか。これまた例え話になるが、十二音技法は独裁者のいない完全法治国家だが、無調とは独裁者のいない無政府状態、スラム街のようなものだ。
ぼくらが英語の勉強をするとき、アメリカ人の発音の変化の法則に苦労させられる。「An apple」は「アン・アップル」ではなく「アナーポー」という風に理解するが、アメリカ人が「アン・アップル」に近い発音でいうときもあるし「アン・ナーポウ」みたいなときもある。一体どうなっている?どういうときにどう発音するのだ?どういう原理に基づいて?となる。
発音は、普通は「音声学」によって指導される。音声学とは、発音の発生原理を解明する学問で、口の中の器官の活用によってこういう発音が出る、というのである。普段LとRの発音の区別をしない日本人に、舌の形などを説明することによって理解させるのだ。
ところがどっこい、この音声学というものによって発音を指導するということは、根本から間違っている。
発音は、いくらその発生の原理をもとめても全く意味がない。そのことについて、言語学のロマーン・ヤーコブソンという人が次のように説明している。
「音声学はわれわれの言語の音を、口、蓋、歯、唇などのさまざまな接触形式から導き出そうとする。だが、こうした調音点が、それだけで、きわめて本質的、決定的であるとしたら、おうむは、われわれとほとんど似ていない音声器官をもつにもかかわらず、どうして数々の言語を忠実に再現できるのか?以上の事実はいずれも、実に簡単な、しかし大多数の音声学的研究によって無視されている結論にわれわれを導く。さまざまな調音を分類しうるためには、いや、正確に記述しうるためには、と言おう、たえず次の問を発しなければならないのだ。つまり、これこれの運動行為の音響的機能は何か?と。」
『舌のない娘について』によると、現在は音声学によって「舌音」と呼ばれ、その発出が、本質的に舌の動きをともなう音として定義されるあらゆる音を、ごく小さな舌しかないのに完璧に発音できる人々について詳細に記述している。
発音についての第一人者である医者のヘルマン・グッツマンによると、ぼくたちが発するほとんどすべての音は(必要であれば)、音響的事実を変えることなしに、全く別のやり方で産出が可能であるらしい。発声器官のひとつが欠けているときは、聞き手に気づかれることもなく、他の発声器官の働きによって代用することができるのである。それは腹話術師の巧みな技術をみたことがあれば、誰でも知っていることだ。
音声学によると「歯擦音」は必ず歯を用いた発音だが、門歯がない人間でも完璧に発音できるということが ウィーンの言語学者アルノルトによって報告されている。彼によると、歯の異常が発声の誤りを引き起こす場合は、決まって主体の聴力に欠陥が見られるらしい。
音声学はただ単に一般的な発生原理を解明しているにすぎない。しかし発音する段階では、その方法は自由なのだ。
このことをヤーコブソンは、「なぜ蛇はイヴに話すことが出来たのか?」という問いによって示している。
うん、つまり、蛇は、人間のような調音器官を持っていないが、「魂の叫び」によってイヴに話しかけたのだ!!
ぼくら日本人は、日本語の発音以外の音は、基本的には「きいていない」のだ。フランス語には二種類の「え」という母音があるが、ぼくらにはほとんどその違いは聞き取れない。それは日本語では「え」は一種類だけであり、言いたいことはそれですべて伝わるからだ。この「言いたいこと」を音素という。正確に言えば、弁別的価値をもった音を音素というのだが、弁別的価値というのは、意味の区別というようなことであり、結局は意味に準ずる発音、ということなのだ。
発音がわるいやつは、耳もわるい。
うまく喋れないやつは言いたいこともない。
一方蛇やおうむは、喋ることに強い意味があった。だから喋れるのだ。
「魂の叫び」とかいうよくわからない言葉は、非常に大切だが、それはなにも得体のしれない幽霊のようなものではない。つまり弁別的価値を持った強い意思、なのだ。
「少年よ大志を抱け」という言葉がどこで誰がどんな経緯で言ったのかは知っているような知らないような感じで、「私には夢がある」や「人民による人民のための……」や「飛べない豚はただの……」や「黙れ小僧!!」のように言葉だけが濃霧のようにじーっと流れては現れる、なんとも思わない台詞になっている。がしかし、「少年よ大志を抱け」という言葉は「魂の叫び」なんかよりずっとしっくりくるし、上の牧師や豚や狼の発言にも同じような大志が感じられるのだ。
民主主義とは奴隷になることではない。奴隷になった人間は何を喋っても「何言ってんだこいつ?」ってなる。
だからモノラルだろうが無調だろうが舌がなかろうが歯がなかろうが、豚だろうが黒人だろうが、ぼくらは言いたいことがあればどうにか言う。
死に物狂いで言うのだ。