母親を探す少女の映像が映し出されている。宮城県の気仙沼の瓦礫となった町を見渡しながら、「おかあさん」と泣き叫ぶ少女。赤い防寒着をきてタオルを首に巻き、いかにも被災者である。この女の子が実際に母親と逸れて悲しみに暮れていることは明白だけれども、この映像の腹立たしさは一体なんだろう。この涙が、叫びが、この少女自身にもしくは母親に向けられたものではなくて、テレビを通した視聴者に向けられたものであるからだろうか。彼女は明らかにテレビに向けて泣き、演技をしている。もちろん、人が泣いたり怒ったりするというのはすべて他者に向けられたものであるし、演技でない涙というものは存在しない。それぞれがドラマの中で演技をして、一般的なよくできた物語の主人公となることで、自らの主体を感動させているのだ。だから人は涙を流すとき、まず最初に他人を泣かせて、それから自分が泣く。この気仙沼の映像が腹立たしいのは、この少女の演技(もちろん本人も演技であるなんてことは自覚していない)が、あまり上手でないというのみならず、おおくの視聴者、もしくはメディアの人間がそれを感じ取っていながら(どんなドラマだとしても彼女の演技が大根なのは誰が見てもわかる)、それを採用して演出しているところだ。つまり、彼女の不完全な素材を、「これは不完全ではない」と信じ込むように強要されているのだ。すなわち、「これは真実の物語です。感動しなさい」と。もちろん気仙沼の惨劇も、彼女の母親の不在も、彼女の涙も、真実であることに変わりはない。その真実の素材を無意識的に物語化している彼女も、メディアも、視聴者も、その偽装に気づかないふりをしている、もしくは強要されているのだ。この欺瞞には目を瞑っていないといけないのだ。これは巧妙な偽装だ。
みんな物語が好きだ。これこれの事実よりもそのストーリーに興味があるのだ。
何を見ても何かを思い出し、よくできた物語を創造する。
地震が起こった事実よりも、それがどういった複線を張って進行し決着がつくかに興味があるのだ。どこにクライマックスを持ってきて、どこでどんでん返しがあり、どこで悪が制裁され、誰がヒーローになるかに興味があるのだ。物語はどんどん作られる。勝手にどんどん作られる。それはよくできた嘘だ。
おれが経験したよくできた物語は、だいたい次のような感じだった。なぜかおれは千葉県にいて、しかも電車の中。電車が停車してアナウンスが流れた。「地震のため一旦停車いたします」なるほど確かにゆれている。小さい揺れだったから怖くはなかった。ななめ向かいに座る背の高い女の子は読んでいる本から顔を上げない。もこもこしたミニスカートをはいてニーソックス。パンプス黒髪ぱっつんツインテール、みるからにコスプレ趣味のオタク少女って感じ。読んでる本もどうせライトノベルだろう。目が細くて鼻は丸いけど、すごくいい足をしていた。太くてだらしない脂肪と、きれいな肌。「安全点検を行うのでしばらくそのままでお待ちください」とアナウンスが流れて、静かになった。するとすぐにまた小さなゆれが来て、それがだんだん大きくなった。細かくて強いゆれで、横に放り投げられる感じではなく、電車が貧乏ゆすりをしているみたいで、みんな黙っていたけど、すごく怖かった。みんな一人で、みんな孤独だった。俺は窓がない席に移動した。震度5はあると思った。強くて細かい揺れがとまると、今度は電車が大きく左右にゆれた。ぐわんぐわんぐわんぐわん振り子のように傾いて、そのまま電車が転がってしまいそうだった。「おお日本終わった!」と五人組の高校生の誰かが言った。「やばいやばい」窓の外では家から人が飛び出し、電信柱も木も家も車も動いていた。おばあさんは小さな声でずっとしゃべっている。揺れがおさまると、「地震のため安全点検を行うのでしばらくそのままでお待ちください」とさっきと同じアナウンス。その後何度も小さな揺れがあって、そのたびに同じアナウンスが流れた。iphoneでツイッターをみると宮城県で震度7だとわかった。6メートルの津波がくるらしい。ミニスカニーソの女はPSPをして暇をつぶしていた。30分ほどしてゆっくり電車が動き、みたこともきいたこともない駅に到着し、駅員が「降りてください」と言った。駅は騒然としている。「危ないのですぐに駅から離れて広場に行ってください」と叫んでいる。メールも電話も使えず、ツイッターですみじゅんと連絡をとった。近くの駅にいるのでタクシーでそこまで行くことになった。一時間ほど並んでタクシーに乗った。運転手は携帯で電話をしながら運転している。「そうだけどもよ、お客さんもいっぱい並んでるし、帰れねえんだよお」駅についてすみじゅんと知らないババアを拾って、おれら二人は途中で降りた。すぐに飲み物を買ってタバコを吸った。電車は全線運休だったから、すみじゅんの家に泊まることになった。
何もすることがないから終末系の映画でも借りてみようということになって、すみじゅんが選んだDVDは「マグニチュード8.2」という映画だった。
マグニチュード8.2 [DVD]/キップ・チャップマン,ニック・ダンパー,タンガロア・エミール
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「未曾有の大地震による恐怖を描いたディザスターパニック。普段と変わりない日常が流れる街でマグニチュード8.2の大地震が発生。大地は裂け、ビルは倒壊し、平穏だった街は人々が逃げ惑う地獄絵図と化す。さらに壊滅状態に陥った街を二次災害が襲い…。」
しかし今回の地震はマグニチュード8.8と報道され、後に9.0と訂正された。
結局映画は借りず、スパークリングワインとウィスキーを買って、家に戻った。家の前の地面が割れて、中から水があふれ出ていた。
家の中でしばらくぼうっとしていたが、常にゆるい地震が続いていて、休まることはなかった。
なんか音楽聞きたいから色々と探しててためしにダークサイケ聞いてみたけど酷かった。だから結局ショパンとドビュッシーを流した。大きな地震がまたきて、その直後に兄からメールがきた。「長野で震度6らしいよ」そのメールをみて「よし避難しよう」といい、すみじゅんの両親を起こして、車で避難所に向かった。中学校の体育館で、着くとバナナが配給された。飲み物はなかった。コンビニに行って、バーボンとタバコを買った。校内でタバコを吸っているとおっさんが「もう少し遠くで吸ってくれますか。中学校なんだからそれくらいわかるでしょ」と行って去っていった。「来たくて来てんじゃねーんだよ」と言ってぼくらは移動した。ウィスキーを飲んで横になるとビンが転がってポケットから落ち、ガンッとでかい音がした。全員がこっちをみた。すみじゅんの母が「割れた?」と言った。「いや大丈夫です」と言って5分くらい寝て起きると、すみじゅんが母にツイッターの使い方を教えていた。「もしもぼくに何かあったらこれで確認を」と言っていた。母親はしきりにジョークを言って、最悪の事態から目を背けようとしていた。
すみじゅんの母
おれは次の日に深夜バスで大阪に渡り、兄の家に一泊して、地元に帰ってきた。
おれが逃げてきた理由というのは、すごく単純なもので、まず最初に母親から電話がかかってきて、「放射能が怖いから今から新幹線で帰ってきなさい」といわれ、「うん」と即答して帰ってきたのだ。東京駅につくと一分前に最終の新幹線が発車していたので、深夜バスを使って帰った。
バンドのCD制作とか楽曲アレンジの仕事やら小説のこととか、いろいろ置いて帰ったけど。
真実か嘘か、という対立に身をゆだねる段階ではないと思ったから、ぼくは帰った。「安全/危険」「真実/嘘」「起こる/起こらない」という対立がまるで不安定な状態なら、その対立から抜け出す他ない。確定した情報はただ逃げるというだけで、放射能が確実にここまできているから逃げるとか、次の震源がここであるから逃げるとかいう次元のものではなかった。そういった二項対立に人生を預ける気は全くないし、ばかげている。だからただ逃げるという選択があるわけで、「○○という事態になったら逃げる/逃げない」といった次元のことははなから頭になかった。それぞれみんな自分の物語の中に生きているのだから、精一杯物語をつくっていけばいい。対立的な判断をして堅実に生きればいい。そうしないと社会がなりたたないじゃないか。これが社会だから。これが集団社会だから。でも、おれは、そういうものにうんざりしてしまったから。不安定な対立の中にいるのはまっぴらごめんになったわけだ。
まずは解体消滅再認識でも対立しないけど曖昧が文字で人で世界で認識で差異が遅れてくる向かってくる。(「無記名少女」)
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