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2012/03/13

蒼井優に似ていない可愛い女

emaruから電話がかかってきた。
彼女はぼくが電話にでるや否や本題に入った(彼女はそういう癖がある)。
その内容というのは、「すべてが引用、というようなことが書かれてある本はないか」というものだった。
理由はすぐにわかった。川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』をつい最近ぼくもemaruも(ついでにぼくの兄も)読んだばかりであり、その中の登場人物が言う印象的な台詞の中に、私たちが考えることはすべてが引用だから、自由に考えることもできない、といったような部分があるのだ。
その小説はまったくもって傑作だったけど、ぼくもそういった引用についていろいろ考えさせられることになった。
ヘミングウェイの「何を見ても何かを思い出す」というタイトルや、ボルヘスの「われわれは引用のシステムに他なりません」という言葉や、クリステヴァの「すべてのテクストは別のテクストの引用によるモザイクである」といった感じの発言はもともとすごく好きだった。



でも、ぼくたちは引用の中に生きている、といった考えはおよそ腐るほど聞いてきた。アリストテレスによれば、芸術は自然の模倣(ミメーシス)であった。プラトンに言わせれば、現実はイデアの模倣だ。旧約聖書によれば、人間は神の模倣だ。ルソーは、文字は音声の模倣と言った。古典主義とは、偉大な手の届かないギリシアの遺産を、全力で模倣するところから始まる。自分たちは不完全だが、ギリシアという完全なるものに近づけることが、その完璧主義的芸術感の理想だった。
ロマン派になって、オリジナルという新たな美学が採用された。ギリシアという完璧主義から開放され、新たな「今まで存在していなかったもの」を創造する試みだ。
現在、「すべては引用だ」といった表現を聞けば、ロマン派のいう「オリジナル」の概念は覆されたことは明らかだけど、それ以前から存在していた、現実の模倣性とどこがどう違うのか、ということは、一般には混同されているように思う。

ニーチェが指摘したように、宗教は、個人の喜びや存在意義を、その完全なる外部に見出す。現実は仮象であり、真の世界、つまりイデアや涅槃や天国にこそ真実がある、ということだ。
古典的な(古典主義ではなく)引用の概念とは、これに依拠している。現実はイデアの模倣だが、その本質はイデアにある。人間は神の模倣だが、神こそ絶対的である。言葉は概念を補完したものだが、本質は概念にある。
引用とはその引用もとの絶対的な正しさ、つまり真理に準ずるものであり、言い換えるなら「引用元絶対主義」である。つまり、引用には遡れば起源があり、その起源こそが、ロマン派のいう「オリジナル」と同義である。ロマン派は、ギリシアには存在しなかった新たな引用元を創造することを目指した。


この古典的な引用の概念は、おそらく今一般的に使用されている引用の概念とほぼ同義だろう。
レディー・ガガをマドンナのパクリだと言い、ポップスはビートルズに始まると言い、様々なスマートフォンはiPhoneの真似だという。

喫茶店でコーヒーを飲んでいると、隣の席に座る若い大学生風の3人の会話が聞こえてきた。女一人と、男二人である。
「ねえ聞いて、あたしバイト先で子供から、《お姉さん、蒼井優に似てるね!》って言われたんだけどー」
男二人は苦笑する。
「似てねーよ」
「いやあ、やっぱ子供は素直だなーっと思ってえ」
「お前化粧品濃いじゃん」
「バイトんときはすっぴんだったからさ、やっぱ化粧しない方がいいのかなー」
「いや、お前すっぴんなったらヤバそうだから頼むからやめてくれ」
「うわーそれ余計なんだけど」

これは引用元の優位性を示す、古典的な考えに依拠した会話だ。男たちは、友人である女に対して、決して性的な魅力を感じていないふりを継続するために、彼女が蒼井優に似ていることを否定する。もし彼女が蒼井優に似ていることを彼らが認めれば、彼らは彼女に対して性的魅力を認めることになり、友人関係に歪みが生じてしまう。一方彼女は、子供から蒼井優に似ていると言われただけで有頂天になってしまっている。
これは蒼井優という引用元の絶対的な美しさが大前提となっている。男たちは、彼女との友人関係を保っていくためには、蒼井優と彼女が似ていることを全否定するか、そもそもの引用元である蒼井優の美しさを全否定するしかない。(そうすると引用という魅力が機能崩壊してしまう)

ぼくはそんな彼女に対して、不意にこう言ってやりたくなった。
「君は蒼井優にはあんま似てない。ところで、君はすごく可愛いね。付き合ってくれませんか」と。


引用もとの優位性を否定する流れは、ごく自然に少しずつ、何人かが言い始めた。
人間は神ではなく猿の引用であるとダーウィンが唱えたことにより、引用もとの優位性は失われた。今まで人間の下であった畜生が、人間の引用もとであることが発覚したのだ。純粋なイデアの存在は、フロイトの無意識の発見によって否定された。言葉に先立つ概念は、ソシュール言語学によってその優位性を否定された。
現代的な引用の概念は、引用元の優位性を完全否定するところから始まるのだ。

大学の授業で、ある禿げ面の教授が、ドストエフスキーの小説が聖書からの膨大な引用であることを説明した上で、「ドストエフスキーは、聖書を読んだことがなければ読めない」と言ったが、それはあきらかに間違っている。教授の言い分が正しければ、聖書も同じように、ドストエフスキーを読んだことがなければ読めないのだ。引用に起源を求めることは不可能であり、そこに時間的優位性はない。

無意識からの引用をフロイトが言い、道徳からの引用をニーチェが言い、社会からの引用をマルクスが言い、記号からの引用をソシュールが言うと、そもそもぼくたちがまったく不自由な存在であることに気づき始める。まったく不自由な存在だ。生まれてこのかた自由に、真の「オリジナル」な発言をしたことなんか一度もないのだ。

言語活動において3つの不自由な段階があることをロラン・バルトは指摘した。
それは例えば『人志松本のすべらない話』をみればわかる。
「ラング」という第一段階では、日本語や標準語や関西弁といった母語によってでしか彼らが発言していないことがわかる。
「スティル」という第二段階は、パーソナルな偏りのことを言う。ケンドーコバヤシのバリトンボイスや、宮川大輔の擬音の活用や、松本人志の唐突な雄叫びなど、彼ら独自の色合いを感じさせられるものであり、本人たちはこれを選んで交換することはできない。それは松本人志が宮川大輔の「猫が車に引かれた話」をそのまま話した際に、口調がまったく様にならないこと自体を笑いにせざるを得なかったことに証明されている。
第三段階の「エクリチュール」は、共同体によって規定されている。彼らの語り口調は様々だが、すべて「お笑い芸人」っぽい内容である。松本人志が、芸人というのは本質的にはいじめられっこの側にいる人間であると言ったが、いじめられっこが芸人になるのではなく、芸人になった時点で、いじめられっこの性質が生まれてくるのだ。それはお笑い芸人という共同体の基本ルールであるからにすぎない。


「今の時代は、すべてのことがやり尽くされているから、新たなものを生み出すことはできない」という言葉は、「今の時代は」の部分さえ省けば、ある意味正しいだろう。例えどんな時代にどんな社会に生まれようが、ぼくらは引用の呪縛からは逃れられない。
恋愛という言葉を知らなければ恋をすることもなかったし、夏目漱石がつくった「肩こり」という表現によって日本に肩こりという症状が生まれた。胃薬の発売によって胃痛が生まれた。


概念も、病気も、アイデンティティも、主体的に創出される「オリジナル」なものではない。無限の引用を経て、そのカオスの中で常に揺れ動くのだ。
なぜ揺れ動くのか?
それは、まだ生まれていないテクスト、未知のテクストによって時代を逆行して引用されるからである。聖書が、何世紀かを経て『カラマーゾフの兄弟』に引用されるべく揺れ動いていたのだ。

ある批評家が「シェイクスピアはT・エリオットからの引用だ」と言った一見奇抜な発言は、そうした引用元絶対主義を破壊することばである。

未来からの引用というのは一見奇妙だけど、ごく普通にぼくらは体験している。
坂本龍馬という人物像は、ぼくらは坂本龍馬本人が残した書簡などから知ることはない。司馬遼太郎がつくったキャラクター、もしくはそれに影響された『お~い、竜馬』やドラマ『龍馬伝』によってぼくらは竜馬像をつくりあげている。竜馬という人物のキャラクター(例えば、型破りで、柔軟で、女にもてて)は、常に未来のテクストによって改変され、揺れ動いている。司馬遼太郎以前は、坂本龍馬という人物に、これほどのヒーロー性は誰も感じていなかった。坂本龍馬は司馬遼太郎からの引用である。司馬遼太郎が『竜馬がゆく』をかかなければ、ぼくらが知る坂本龍馬は存在さえしていない。



『ソフィーの世界』の終盤で、ソフィーは世界中の様々な「登場人物」たちが集まる場所に出くわす。彼らは時間のベクトルを無視し、過去の人間が未来の人間に、未来の人間が過去の人間に話しかける。
ぼくらはそうした引用のパレードに常に強制参加させられている。

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