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2020/12/28

macaroomのスペクトルポップの新曲「hole」と穴で繋がる別世界について

 

maacaroomの新曲「hole」を発表しましたので、少し解説します。




この曲は二つの世界をつなぐ穴についての曲をイメージして作られたものです。

二つの世界をつなぐ穴といえば、言わずと知れたルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の穴や『ナルニア国物語』のクローゼットだけでなく、ごくごく最近のネットフリックスのドラマ『ストレンジャー・シングス』に至るまで、古典的な並行世界へのよく知られた道具として馴染みのあるもの。

そういう愛着のあるSF/ファンタジーの物語の設定モチーフにして、技術的にこれを表すことにしました。

例えば、「hole」のAメロは、「emaruそっくりに歌うコンピュータ」が歌っています。

サビになると劇的な転調とともに「emaru本人」の登場によって別世界へスリップします。

この技術はmacaroomの主に音響技術面でのエキスパートであるボブが行いました。あらかじめ録音されたemaruのボーカル音声を元にコンピュータで分析合成するパーシャル・トラッキングと呼ばれる手法により、emaruそっくりだが少し雰囲気が違う(そしてなによりすごくローファイ)なものができあがりました。

この音声分析合成の技術は、ボーカルだけでなく、楽曲の最初から最後まで終始流れているラジオのようなノイズにも使われています。これはもともとアメリカの超有名テレビ番組からサンプリングしたもので、それをボブが再生のスピードと方向性をランダムに入れ替えながら、パーシャル・トラッキングしたものです。

最近ボブと話していて、今まであまり意識したことなかったけどボブは「スペクトル楽派」の正統継承者なのではないか、ということがわかってきた。確かに彼が今までやってきた試みも、今作の試みも、フランスのIRCAM(フランス国立音響音楽研究所)で花開いた現代音楽、俗に"スペクトル楽派"と呼ばれる潮流の発展形だといえるようなものが多い。まあ、名前は実際なんでも良いけど、形のないものに名前をつけるっていうことはある意味で大事。

というわけで、思いつきでこの曲を「スペクトルポップ」と命名してみることにする。

間奏部分では、バロック音楽初期の作曲家ジョリオ・カッチーニ作とされながら、実際には20世紀ロシアの作曲家ウラディーミル・ヴァヴィロフ作である『アヴェ・マリア』のイントロ部分を引用しました。ヴァヴィロフは意図的にこの曲を「カッチーニ作」であるとして、しかしながらあまりバロック的には思えないこの曲を発表し、実際に2000年ごろまではカッチーニの作品として出回っていました。

単にイントロの旋律の美しさを取り入れたいと思ったに過ぎない演出なのですが、バロックと現代を揺蕩うこの曲の存在自体が、「hole」のコンセプトにぴったりだと思いました。


最後に、今作のジャケットは、もちろん木石南によるフィルム写真から。彼が高校生の頃から愛用しているNikonのF2で、少し前に兄とビッグカメラのカメラ館に立ち寄った際、「カメラの歴史」を紹介する巨大な年表が壁にデカデカと設置されていて、その年表の最初から二番目にF2がおっきく紹介されているのをみて、愕然とした。兄は別に古いアンティークな機材を愛するような懐古趣味の人じゃなくて、最新のiPhoneやツイキャスが好きな、macarooomの中でも特に新しいトレンドなどに敏感な人なのだ。当然F2も、高校生の時に(もちろんF2は当時から"古いカメラ"ではあったが)「これが一番良い」と思って買い、今までずっと普通に使ってきたのだが、気がついたら前時代の歴史的なものになってしまった。悲しいかな、フイルムカメラが売られてないどころの話じゃなくて、フイルム自体がどんどん生産中止が相次いでいる。コロナ情勢下でも目に見えてフイルムが消えたそうな。

というわけで、このジャケット写真自体が、現代にはふさわしくない、時代的な/歴史的なカメラを通して現像された貴重な作品であることを強調したい。別にフイルムカメラで撮ったから貴重だなんて言いたいわけじゃなくて、F2を(F2だけを)使い続けている兄の根性とガッツに、時代錯誤な魅力を感じるでしょ、というわけだ。

この写真、emaruの表情が、「インランド・エンパイア」に迷い込んだローラ・ダーンや、異界の者に遭遇した時の(テニエルの描く)アリスやにそっくり。

ぼくの雑な技術によっておばあさんを空中浮遊させてしまったが、あまり意味はない。

ミュージックビデオはすでにパブリックドメインとなっている短編アニメ映画 "The Arctic Giant" (1942)より。スーパーマンシリーズのひとつで、これも太古の恐竜時代と現代という二つの世界のイメージ。二つの世界を華麗に飛びたるはスーパーマン。

物語の冒頭が巨大な洞窟からというところに注目。

たぶんポーのアーサー・ゴードン・ピムやコナン・ドイル『失われた世界』がモチーフと思われる。





2020/10/27

バイリンガールちかさんはどうして差別的だと言われるのか

英語学習のYOUTUBERとして有名なバイリンガールちかさんは、なぜ差別的だと言われるのだろうか。


ちかさんの言ったことばのいくつかを抜粋してここに掲載するのは、たぶん彼女にとってフェアではないので、控えようと思う。それに、その動画は今からもう数年前のものなので、きっと彼女の考え方だって変わっているかもしれない。けれどもやっぱり少しは引用しなければいけないだろうと思うから、この文章を読む前にまず問題のちかさんの動画を視聴することをおすすめします。



アジア人が英語を話せて、日本人が話せない理由 // Why Japanese people have a harder time learning English.〔# 065〕


ちかさんは表面上は差別とは真逆のことを言っているように見えるので、ここでの彼女に対する指摘はなんだか重箱の隅をつつくような、いじわるな表現に思えるかもしれない。


要約すると、ちかさんは、日本人がなぜ英語が喋れないか、ということを彼女の経験などから話している。そして、アジア人(ちかさんはここでは日本人以外のアジア人のことを指しています)についても話している。日本人以外のアジア人は、英語の発音は完璧ではないけれど、でも彼らは発音など気にせず英語を「自分のものにしている」ので、堂々と話すことができる。一方で日本人は完璧な英語を話そうとするので、いつまでたっても堂々と英語を話すことができない、というもの。


この要約を書くだけで、ぼくは自分が差別主義者になってような気がして筆が震える(失礼、Macbookのキーボードが震える、そもそも筆が震えるという慣用句などあっただろうか)のだけど、どうにか最後まで書こうと思う。


ちかさんの主張は、一見すると、アメリカやイギリスの発音だけが正解じゃなくて、アジアの様々な英語話者の話す発音のすべてが正解であって、英語の発音の多様性を認めていこう、という、いかにも21世紀的多様性のグラデーションを認めていくような主張(もしそうだとしたら素晴らしい!)に見えなくもない。



しかしながら言語表現っていうものはおもしろくて、そのメッセージだけを切り取ってもなかなか伝わることはない。誰が、誰に対して、どのような文脈で、どのような言語で(たとえば関西弁で、とか、不良のような喋り方で、とか)、どのような方法で(チャットで、とか、面と向かって、とか)、そういうものが言葉の意味を変えてしまう。


だから特に、誰がそれを言ったのか、誰に対して言ったのか、ということが、言葉の表現上の問題よりも重要になってくることがある。


一応、ちかさんについて簡単に書いておくと、

彼女は日本人で、小学校一年生の頃にアメリカのシアトルに家族で引っ越している。そのネイティヴな英語力を活かして「バイリンガール(バイリンガル+ガール)」を自称して2011年から英会話学習の動画をYouTubeに投稿している。2020年10月現在、チャンネル登録者数154万人。(チャンネル名「バイリンガール英会話」)



私たちが物事をステレオタイプに表現するとき、それを自分たちに対して表現するには許されるが、第三者に対して表現するときには気をつけないといけない。「私たち日本人は自己主張が苦手だから」と表現することは構わないが、「彼ら中国人は〇〇だから」と表現するときには気をつけないといけない。なぜなら、ステレオタイプな表現というものは、物事をわかりやすくコンパクトに伝えてくれるとても便利な技術であると同時に、世界中にいる本当に信じられないくらい多様なグラデーションをもって存在するそのほとんどの可能性を切り捨ててしまうからだ。



だから、ちかさんが、この世にはたくさんの英語があって、たくさんの発音がある、アメリカ英語やイギリス英語だけが正解じゃない、英語の発音の多様性を認めていきましょう、という素晴らしい思いを語るときに、それが誰を指しているのか、そしてそれを語るのは誰か、というのがすごく大事なのだ。


ちかさんが「アジアのかた」というとき、それは誰のことを指しているのだろうかかつてイギリスの植民地で、かつ現在でも公用語の一つが英語であるマレーシアやシンガポール、インドやパキスタンや香港の人々のことなのか。それとも日本のように英語が公用語ではない国、たとえば韓国や台湾、ビルマ、ブータン、バングラデッシュなどのことだろうか。


ちかさんが「私たち日本人」という時の私たち、というのは誰のことなのか、英語が苦手だとされているステレオタイプな日本人のことなのか。それともちかさんのように帰国子女で、おそらくアメリカ的な英語を自由に喋ることができるような日本人のことなのか。


ちかさんが、インド人が英語は「これさえ喋れれば良い」と思っていると表現する際に、彼女はインド英語はアメリカ英語より劣るものだということを暗に示している。彼女がインド人が英語を喋る際に「ハードルを下げている」と言うとき、彼女がアメリカ英語を最高到達地点として設定していることを暗に示している。







世界は7ヶ月前に、世界保健機構の事務局長テドロス・アダノムの会見を生放送で見ていた。

彼は世界に向けて、「Covid-19」と呼ばれるウィルスが引き起こした世界の状況評価を「パンデミック」であると宣言した。コロナはパンデミックなのだとみんなが知った。

彼はアフリカ北東部のエリトリアに生まれ、幼い頃にマラリアによって深刻な病気を経験したらしい。ぼくはこれを今さっきこの文章を書きながらWikipediaで調べて知ったので、間違っているかもしれない。世界保健機構からのアナウンスを見たぼくにはそれが学校のリスニングの授業や昔のハリウッド映画で見てきた英語の発音と違うということ以外はわからなかった。


マイノリティがどうとかいう問題以前に、

アメリカ英語の発音が、世界的な最高到達地点であるという状況はもうとっくの昔に終わっている。世界的なニュースを見ればいつでもそれを確かめることができるし、それが例えば「WHO」という、いかにも権威的な場所でさえそうなのだ。

ぼくがさっき言ったようなハリウッドだって、変わってきているだろう。アジアからカリフォルニアに移住した俳優の英語の発音を「矯正」するよりは、彼の民族性やもしくは単に性格といったアイデンティティを彼の役作りの武器にするべきだとハリウッドは理解していったのだ。



戦争や植民地政策といった悲しい過去の出来事を無視して、その国の公用語やグローバルな英語のあり方を語ることはできない。ぼくはアジアのいくつかの国での英語教育を、ぜんぶひとまとめにして肯定的に語ることはしたくない。その国のそれぞれの歴史があって、そしてそれらは必ず悲しい歴史を含んでいて、ひとまとめに語るにはあまりにも荷が重すぎる。


ちかさんが、それを、ネイティブな英語話者、まさにバイリンガールという看板を背負って語るときに、非常に差別的な構図が出来上がる。ひとつは、アジアの非常に様々な人々や歴史的状況をほとんど無視してひとまとめにして話しているということ。もうひとつは、ちかさんが日本人の英語話者としては珍しい生い立ちにあって、その状況を「完璧なアメリカ英語」という最高到達地点の実践者として語っているからだ。

ちかさんが「インド英語は聞き取りづらい」というときに、それは「アメリカから見て」という前置きが抜けている。インド人にとってそれは聞き取りづらいものではないはずだからだ。しかし、そういうぼくの文章の中にも、インド英語、というものがひとつの単一のものとして存在しているかのごとく書いていることに注意しなけれないけない。


英語の発音が単一の発音ではないことは自明だけど、それは彼女が思っているようなものとは違う。彼女がいうイギリス英語は、たとえば王室で喋られるような、またBBCラジオのアナウンサーが喋るようなクイーンズ・イングリッシュ、もしくはPR英語と呼ばれるもののこと、もっと漠然と言ってもロンドンの知り合いの英語という意味でしかない。スコットランドやアイルランドやウェールズは? アメリカ文学では古くから、南部の黒人の英語を日本語に翻訳するときに「東北訛り」で訳してきたが、これはちかさんの言うアメリカ英語だろうか? 映画『トレイン・スポッティング』の英語は(アメリカ英語話者にとって)非常に聞き取りづらいということでアメリカでは字幕上映された。しかしこれはもちろん「イギリス英語」である。やさしい読者がイギリス、という言葉の中にスコットランドも含めてくれるのであれば、の話だが。



ちかさんはきっとそんなことが言いたいのではなくて、

単に英語学習の方法を伝えてるだけですから!

(読者からのぼくへの反論)


この反論にぼくは何も返せない。

はい、そうでしょう。

きっとちかさんは差別主義者であるどころか、差別なんて大大大大反対のはずだから。


ぼくは別にちかさんのチャンネル登録者数が多いので

「インフルエンサーなのだから、しっかりせい」

と言っているわけではない。


有名人だから、とか、もしくは

「公共の電波を使って〜」うんぬん、

そういうことではなくて、


言説というのは、

小さな思い込みの集合体なので、

それが英語学習についての話や、

ただの世間話だって、

あまり関係ない。


そして、そういう言説を見つける限り、

何らかの指摘を受けるものだ。

それが動画の中であれ、テレビであれ、喫茶店での会話であれ。



バイリンガールちかさんの英語のお話は、

世界中には「いろんな英語の発音がある」としながらも、それを「アメリカ英語」「イギリス英語」「アジア英語」という非常にざっくばらんな表現で説明しており、それは彼女の意図とは逆に、多様性を捨て去っている。


自由にやりなさい、自由にやりなさい、ということで非常に不自由に感じる、ということと似ていて、

言葉というのは無意識にバチン! と矛盾する時がある。



こういう逆転現象は、

大昔にエドワード・サイードという人が『オリエンタリズム』という本の中で説明したことで、ぼくはそれにとても感銘を受けた。いつか自分のYouTubeチャンネルでもこの本の話をしようと思う。



2020/06/16

ライブハウスを救おうってさ、hahaha(⌒-⌒



ライブハウスとアーティストの関係性はもともと排他的でベールに包まれている。ぼくらはライブに出る度に集客ノルマを要求され、精一杯知り合いを呼んだり、無様に自腹を切ったりしながら、その一方で毎日どこかでノルマが課されるどころかギャラを受け取るアーティストがいることを知っている。さあ、ぼくらも早くギャラを受け取るに相応しいアーティストになろう、と意気揚々に活動をしていくのは盲目的、借金とバイト、家賃は不払い、ミュージックビデオを撮るどころかPCはクラッシュ、ハードディスクはパンパン、wi-fiの通信料も払えない。ブッキングはジャンルも経験値もごちゃまぜの無意味なイベントばかり。客は増えない。
一人称だけど、これはぼく自身の話ではない。音楽文化の発展? 良い音楽に客は自然と集まるって? ライブハウスの店主がまさか浜崎あゆみの狂ったドラマを真に受けてるんじゃないだろう? 良い音楽はそこら中にある、けれどもライブハウスでは集客率を定規で測ってポイと振り分けるしか考えてない。ライブハウスのフロアが巨大な体重計になってて、そのkg数に応じてギャラが分配される寸法。それに、CDショップなんかクソ食らえだ。店員は誰もCDなんか聴いていない。バイヤーも同じ。いつも誰のリリースでも似たような販促。アーティストが来店すれば機械的にサインを書いてもらうルーティーン。
音楽家は、ライブハウスのシステムの中では完全に客商売であり、人気商売でしかない。これは創作活動やアート活動といえるだろうか? 音楽文化という全体の産業の発展に寄与しているといえるだろうか?
(「音楽文化の発展に貢献することこそがライブハウスの責務だ!」と言いたいわけじゃありません。むしろそうじゃない方が健全)

ぼくらは当然オンラインに逃げる。
ライブでなければ意味がない、という完全にデタラメな神話には耳を貸さない。
客席の熱気や真空管アンプの響きやフロアの振動を信仰しない。
LPの可聴領域以上の説明できないあたたかさという神話ではなく、適度に圧縮されたmp3を配信サイトにアップロードする。
iPhoneのスピーカーや1000円のイヤホンで聴くことを前提とした音楽発信。
ツイッターとインスタで宣伝して、YouTubeでライブ配信、ストリーミングもダウンロード販売も、一か八かTikTokだって。恥ずかしいけど自分たちのバンド名をハッシュタグにして投稿する。いつもクールでいたいが、そういうわけにはいかない。生活を切り売りする。
見習うべきなのはジョン・レノンやボブ・ディランではなくて、偉大なヒカキンやキングコング。
最大の市場調査の方法はエゴサ。慰みの場も落胆の場もエゴサ。

コロナ以前とコロナ以後で変わったことはあるか。
何も変わってない。
ライブハウスを救うために立ち上がる気高いアーティストはライブハウスを満員にするアーティストばかり。彼らはライブハウスにお世話になったという自覚がある。彼らはフロアを満員にしてとてつもないkgを叩き出す代わりに、ギャラを受け取り、公式ツイッターではべた褒めされ、お店では大展開。恩を感じているのだ。ライブハウスに育てられたという強い思いがある。だから、ライブハウスに恩返しをする、音楽産業に恩返しをする。みんなで協力して、ともに戦おうとする。素晴らしい。
この世界はコネクションが命だってみんな知ってる。コネクションがなければバトンもまわってこないし、誰かを救うことも救われることもない。取り残されたぼくらはオンラインなのにオフラインの気分。夜九時を過ぎると父親がぼくのすべてのツイートにいいねをする。

ライブハウスを満員にするアーティストは一方でインフルエンサーでもあるので、この暑苦しいムーブメントが大多数のアーティストの気持ちを代弁しているように思える。しかし実際にはこの流れから取り残されたアーティストが大勢いる。日本中の大多数のアーティストが、特に何もすることもなく、どこからも依頼も来ずバトンも渡って来ない中で、一連の現象がiPhoneの中のツイッターの中だけの出来事として「ライブハウスを救おう!」というツイートを眺めている。みんなニューズピックスの見過ぎ。「自粛期間中に忙しくない人はこの先あぶない!」だって、これはお笑い種、ただのフィクション。ウィズ・コロナ、とか、ニーテンゼロ、とか。「ライブハウスを救おうってさ、hahaha(⌒-⌒」

取り残されたアーティストたち、彼らはもともと無視されていたのだから、たとえコロナ騒動の最中であっても、それは変わらない。サーフボード持って砂浜で突っ立ってるだけ。洒落てる海パンは穿いてるけど波はやってこない。この波に彼らは関係ないのだ。大人しく、ツイートを読んでいいねを押したりリツイートするだけ。単に日焼けして脱水症状。ぼくらはフロアを満員にするアーティストじゃないし、ライブハウスからギャラをもらうこともない、アーティスト以前のアーティスト。もし何かで逮捕されてニュースになったとしたら「自称アーティスト」って冠がつく予備群。
非商業主義や超自由主義、実験主義の幽霊が、日本中にいる。ライブハウスはぼくらにとってもともと乗り越えるべく壁であって、敵ではない。関係性はいたってシンプル。良いイベントが組まれたり、有名なアーティストの前座として組んでもらえるように、いつも顔色を伺い、チェキやCD特典でアコギな客商売。かつて我々はそうして意欲的に次のステップを夢見て活動したが、ライブハウスがぼくらを繋ぎ止めるのは単に金でしかない。ノルマという完全に担保された最低保障金額がありながら、もしかすると後々この中の誰かがビッグネームになるかもしれない、という希望もある。それ以上も以下でもない、淡白な関係性。

リアルな現場やストリートが全否定されてステイホームの現在。ライブハウスがインターネットに参入する。みんなオンラインで繋がっているから上も下も関係ない、けれども1番のニュースは安倍晋三と星野源。どちらも違う世界で頂点を極めた者。クラブエイジアのクラウドファンディングには4000万円を超えるお金が集まる。1日ごとに100人が平均6,000円このクラブに支援している。大成功、おめでとう。ライブ配信だって、大盛況。

音楽の状況は何も変わってない。
その上、経済成長率は戦後最悪らしい。

つまりね、ぼくら幽霊たちはもともと音楽産業にウンザリしていたわけだ。
ただそれだけ。

2020/03/13

コロナウィルス大流行中に関西ツアーした怒りの記録



大阪のライブハウスは史上最大のコロナ風評被害の向かい風を受けており、ツイッターではライブハウスオーナーらがそれぞれのマニフェストを発表、経験したことのない数のリツイートとそれに続くクソリプ、稀に正論。医療と政治と経済、いやいやその前に倫理観か、我々の行いは正しいのかと自問自答し、考えすぎた末に追い打ちで熱い引用ツイート。精神は病んでいく。街はもうカオスだ、現にマスクはないし、トイレットペーパーもない。
みんな始めからWHOや厚労省の発表よりも、ツイッターやフェイスブックでの情報を信じていた。



時を戻そう。(いやお前が戻したっていい)
ぼくらは、ツアーの経費をインターネット上で支援してもらう形でこのプロジェクトを開始した。
YouTubeのライブ配信で呼びかけ、noteとペイパルで支援を募った。
下関でのイベントは2万5千円の交通費×メンバー(4人)が約束されていた。
それにライブ配信で集まった支援金を合わせて、なんとかメンバー4人の交通費と宿代を稼ぐことができたのだ。
しかし今回のツアーの最終地点であった下関でのイベント「沈黙の春」は
早々にイベント中止を発表、本当に沈黙することとなった。

下関のイベントが中止となり、まさかの赤字スタート。
下関から東京までの航空券は購入済み。
まず、大阪から下関までの船のチケットと、下関から東京までの航空券のを払い戻し。
飛行機は3分の1程度しか返ってこなかった。
そして大阪のライブハウスでの感染者のニュース。政府の要請。
4月にスコットランドから来日するはずのレーベルメイトは
ぼくにスカイプで「ぼくらは今ほんとうに日本にいくべきだと思いますか?」
ときいてくる。めちゃくちゃそう思うやろうな、と思いつつ判断はお任せすることに。

会社はテレワークに、学校は休校に。

ボーカルのemaruがダウンした。コロナウィルスによってではなく、精神的な負担によって。
そりゃそうだ。
AKIRAが予言書なんて言われたりする最中(中止だ中止だ!)、
カミュ『ペスト』の封鎖されたオラン市や、『ミスト』のスーパーマーケット、
そんな場所で音楽をしようというのだから。
しかし、ともかく、ぼくらは大阪と京都のライブを決行することにしたのだ。


時を飛ばそう(ここで話は急にライブ後の打ち上げに飛ぶ)
大阪ムジカジャポニカと京都Glowryでのイベントを終えた最終日に、
ぼくらはゲストハウスのテーブルを囲み、ようやく初めてゆっくりと酒を飲むことができた。
ぼくらメンバー4人に加えて、
知久寿焼さんのマネージャーのわたせさんが、今回のツアーについてきてくれた。
半分はお客さんとして、半分はスタッフとして。

というのも、macaroomと知久寿焼さんは、
つい数ヶ月前にクラウドファンディングでの資金集めの成功によって、
共同でアルバムを制作している真っ最中なのだ。
とくにわたせさんとボブは週一ペースで会っていて、
「欲望のおもむくままにうまいものを食べまくる」という会を開催してる状態。

ぼくは二つのライブを終えて、なんともいえない悲しい気分になっていた。
兄が持ってきた「メキシコ産のカナディアンウィスキー」という不思議な飲み物を飲んでいたせいかもしれない。
テーブルの上にはわたせさんが持ってきた「ユリイカ」の青葉市子特集。ここに知久さんが文章を寄稿している。


大阪でのライブはわたせさんの紹介によって実現したものなので、
素晴らしい二組との対バンだった。二組とも素晴らしかった。
持ち時間も十分に与えられた。お互いがお互いの演奏を観て、表現について何かを思う。声を掛け合う。
集客の感じで想像する以上のギャラをいただいた。
はっきり言って、我々は東京でだって、こんな素敵なイベントに出演したことはない。
どうしていつもよくわからないイベントに誘われ、チケットは3000円もして30分しか演奏できないのだろう。




京都でのイベントは、我々のつながりで入れ込んでもらったブッキングなので、
対照的だった。
大学生ノリのバンドマンたちが6組も集まって、持ち時間は30分。
本番中にリハーサルするようなふざけたバンドもいた。
楽屋ではスマホで音量を最大にしてユーチューバーの動画をみながらはしゃいでいる女たち。
でも店長はめちゃくちゃ良い人だった。こんな時期に来ていただいて本当にすみません、と言っていた。
こちらこそ集客の助けにならずにすみません、と言った。
ご飯代くらいですが、といってギャラまでいただいた。

ライブハウスの人はすごく優しくて、
特にこういう時期だから、なんだか結束力が生まれる。
良い人たちだった。

それよりも何よりも腹が立つのは自分たちに対してだ。

メキシコのカナダウィスキーが進む、進む。これはうまいぞ!
ボブが買った「アイスの実 大人のショコラ」は絶品だった。ホタルイカの燻製をライターで焼いて味わう。
目の前のテーブルには、大特集されている青葉市子さん。
emaruが代表してそれを音読する。
知久さんが寄稿した文章には、嬉しいことに、
macaroomのemaruについて一瞬だけ触れてくれている箇所があった。
わっ、とみんな声をあげる。
ユリイカに自分たちの名前が載るなんて思ってなかったから、
みんな喜んだ。
でも一方で、ぼくは自分たちの現状に腹が立つ。

鬱金桜の花見で、エマルと青葉市子さんはけっこう酔っ払いながらバドミントンをして、
知久さんはそれをみながら笑っていた。

くそ、あんなブッキングに入れられるのは、自分たちのせいだ!
誰からも何の特集も組まれやしないし、イカしたフェスにだって誘われやしない!
くそ、やけにアルフォートがうまいぞ。こりゃ狂ったようにうまい!

ツアーから帰ってきて、ぼくは改めてユリイカを買った。
ピカソの、ハンカチを噛む女性の絵を思い浮かべる。あれはユリイカを持ってレジに並ぶ俺だ。

七尾旅人さんの文章を読んだ。
青葉市子さんについて書かれた文章だが、ぼくは興味深い箇所を見つける。
おや?
その意味深な文章を読んで、ぼくにはわかる。しかし決定打ではない。
これは、救いだろうか? 絶望だろうか?

なぜだろう、と考える。
我々の音楽は、誰に評価されていて、誰に聴かれているんだろうか。

結果的に、ぼくらはコロナウィルスに救われた。客の入りが少なくても言い訳になるからだ。
アンコールの曲を練習したのが馬鹿らしい。
けど、パンデミックの最中に浮かれてアンコールなんてやってもね、自粛よ、自粛!
と、
ぼくらはこうやって言い訳するわけさ。

帰りに立ち寄った三保の松原、日本一深いという駿河湾は強い風でヨットがたくさん出ていた。
ぼくはこの強い風に歌川広重の姿を見た。風じゃ風じゃ!! 
KORGのシンセをのせたカートが砂に埋まって動かない。
もうすぐ生まれ故郷へ渡っていく予定のユリカモメが集まってくる。

最近はマグロ不況らしくて、一隻しかマグロ漁船は停泊していなかった。
近くの喫茶店は禁煙だったが、他に客がいないので店主が灰皿を出してくれた。
店内にはジョニー・キャッシュが流れていた。