ぼくは忙しい中でうっすらと「花はどこへいった」ということを考えているのだった。
というのも、年始の『朝まで生テレビ』で話題となった、ウーマンラッシュアワー村本さんの発言に関する、
様々な人たちの意見をうっすらとユーチューブやツイッターなどで目にしていたから。
村本さんの発言というのは、簡単にいうと、
「1:無知、2:非国民」な発言をしたということ。これでネットがバズった、ということなのだ。
Abeam TVというネット放送局の「AbemaPrime」という番組で、
村本さんが例の非国民発言についてほぼ全員からバッシングを受けまくっていて、
経済評論家の上念司さんなんかは結構徹底的に否定している感じだった。
ところが、
その番組に後日、宮台真司さんという社会学者が出て、村本さんを擁護したわけだ。
当然、宮台さんと上念さんは軽めの言い合いになるんだけど、ぼくのなんとなくの印象では宮台さんが優勢な雰囲気で、
しかしながら、バチバチの喧嘩をするわけじゃなくて、最終的にこの二人はだんだんと意見があっていくのだ。
そして最後、この二人が完全に意見が一致する瞬間が現れる。それは、
「左翼のお花畑がこの国を悪くした」ってこと。
ほうほう、なるほど。
まさか上念司というやや右寄りのハキハキ喋る経済評論家と、かつてのニューアカ残党たる宮台さんが、
「お花畑=クズ」で意見が一致するとは。
その瞬間、ぼくの中でびびびーーーん!と稲妻が走ったのだ。
「よし、お花畑を自称しよう」と。
そして早速ぼくは自身のツイッターのプロフィールに「お花畑空論思想家」を追加した。
これは、ぼくが常日頃から実践している、
慈愛に満ちた「天邪鬼」でありなさい、
という神からのお告げ、つまり
「天寂聴(あまのじゃくちょう)」に基づいた行動だった。
ということで、2018年、ぼくはお花畑としてリボーンした。
お花畑を自称することは良いとしても、
お花畑がなんなのかは、全くしらない。
ただし、自分がフラワーチルドレン的なドラッグカルチャーに青春を捧げたという自負はある。
つまり、フラワーピープルであるのだが、それとこれとが関係あるのかはわからない。
Wikipediaというスーパー素晴らしい知の宝庫で調べると、
お花畑:妄想や空想、非現実的なこと、批判・非難されている事をプラスに捉えすぎて本質を見抜けていない、あるいはそういった思考をしている人物を差すスラング
なるほど、ぼくはプラスに捉えすぎて本質を見抜けていないということだ。
この定義を読んで真っ先に連想するのは坂本龍馬やエジソンやアインシュタインなわけだけど、
これらの人は古くから一般教養的に英雄視されてきたはずだ。
しかし、今ではお花畑は英雄譚から姿を消してしまった。
お花畑が日本を悪くしたからだ。
お花畑はどこへ行ったか?
ピーター・ポール&マリー、いやピート・シガーがいうには、戦争が始まると花がなくなるのだ。
花はどこへ行った?
花は女の子が摘んで、女の子は若い男が連れて行って、若い男は兵隊に行って、兵隊は墓になって、墓から花が咲くのだ。いつになったらわかるんだ?...だ。
これは、DDTのおかげで鳥の声がなくなったというレイチェル・カーソンの話とも
蝶が舞うとトルネードが起こるという複雑系科学のたとえばなしとも似ているが、全然ちがう。
しかし、戦争が花をなくすのだ。
確かに今日本はおもいっきし右傾化している。
もちろん「右=戦争」というのは古くさい発想だけど。
テレビ見てて「この人頭の良いなあ」と思う専門家はだいたい右っぽいことを言う。
このようなことをTIMEが書いたのは2012年のこと。
ところでぼくは、朝生をみてて、村本さんの非国民発言に、興奮していた。
「お、やった! 非国民発言だ! やったぞう!」と手を叩いたわけだ。
ぼく自身がすっごく非国民的な方で、というか天邪鬼で、
なんども言うけど、
優しさに満ち溢れた天邪鬼な態度を
天寂聴と呼んで実践しているのだから。
お花畑っていう皮肉ワードが頻繁に使われるようになった背景には、色々なものがあると思うのだけど、
ひとつはもちろん学生運動が最終的に内ゲバで終わったっていうこと、
そしてもうひとつはオウムサリン事件だと思う。
それで、オウムサリン事件は、まず日本のスピリチュアルブームの成れの果てだったってことと、
もうひとつはポストモダンが日本に輸入されて、
ニューアカデミズムというよくわからない流れがインテリ層を突き動かしていたってこと。
というか中沢新一の著作は、オウムの思想に直接的に影響を与えている。
宮台真司さんはそのへんをどう考えているのかわからないけど、
ぼくはこのあたりから、フランス構造主義や雑誌「現代思想」やポストモダンというワードやフェミニズムその他のたくさーんの言葉たちが「さむい」感じになってきたのだと思う。
さて村本さんに戻ると、
彼の素晴らしいところは、単に「非国民」ってだけはなくて、どうみたって「無教養」だってところ。
単に非国民的なタイプでいえば、たとえば立川談志さんのような素晴らしい人がいたけど、彼はとっても教養人だった。
というか博学だった。
しかし村本さんは、無教養で、馬鹿面まるだしで、専門家に喧嘩を売って、あっさりと負けて帰るのだ。
これはいわば、ニューアカデミズムという、専門家が大衆文化へと介入する方法論のちょうど真逆をいっているのだ。
つまり、ニューポピュリズム(すでに別の意味で使われる用語だが)なのだ。
これは、いわば宮本武蔵というアウトサイダーが、当時のアカデミズムの中心である吉岡一門に道場破りにいく図と同じなのだ。
かくいうぼくも、「cage out」という造語を使ってアカデミズムに喧嘩を売っていったのだが、
それはつまり、大衆音楽という目線から、不確定性の音楽という(本来は自由だけど)堅苦しい音楽をズタボロに切り裂こうということなわけだ。
とはいえ、川島素晴先生(いわんや柳生十兵衛)という、いわば専門家でありかつ大学の先生である人からすれば、
ぼくの戯言はちょちょいのちょいでかるーく振り払うことができるレベルなのだ。
そして本当のところは、川島素晴というアカデミズムの中心にいるような人の中にも、大衆性というか、宮本武蔵根性というか、アカデミズムを破壊したいという衝動が少なからずあるのだ。
だから、「アカデミズム」という概念は本当は幽霊のようなもので、本当に真摯に研究している学者っていうのはそんな枠組みなんて考えもしていない。
しかしマルクスが「幽霊がいる」といったように、幽霊は幽霊として存在しているのだし、全体としてそれは脅威なのだ。
なので、村本さんのお馬鹿非国民発言がヒットしたことで、
「お花畑=悪」という結論に行き着いたのはむしろ大きな間違いじゃないかと思うわけだ。
世の中の流れは、そうなっていない。
お花畑がますますバカ扱いされているのは周知の事実だけれど、
今ぼくがいったように、ニューポピュリズム(本来使われている意味ではないけど)は始まりつつある。
たとえば「Kindle Unlimited」や「Google Books」や「SIMフリー」。
ぼくは最近、ようやく格安スマホを契約し、月々の支払いは半額以下になったわけだけど、
それにプラスして「Kindle Unlimited」に手を出した。
月々980円。
これは、Kindleにある電子書籍のうち、「Kindle Unlimited」に認定されている本がすべて読み放題というもの。
うーむ、最低限度の文化的生活を送る個人事業主からすれば、月々980円は相当に高いのだ。
しかし、これは知的財産を、毎月たくさん本を買ったり、大学の図書館で毎日知識を得ることができる専門家のものだけにするのではなく、
一般大衆に解放するという革命的な試みだと思う。
Kindle Unlimited、まだまだ日本語で制限なしで読める本は少ない。
少なすぎる。だいたい20万冊くらいといわれている。
それでも、利用しているのは、
1、月に1冊も本を読まないのは完全に「文化的生活」ではない
2、月に1冊本を買うと、Kindle Unlimitedの月額料金になる
3、5分休憩の合間にも新たな本に手を出し、おもんないと思ったらすぐに手放せる。
4、これまでは5分休憩でSNSをみていたが、SNSではなんの知識も得られない。
5、毎月何冊も本を買ったり、頻繁に図書館を利用できる学者やらと対等になれるほどの知的吸収率を獲得しなければならない
6、それによって、知識の格差をライフスタイルや財力から解放することができる
昨日も、思うがままに、ナポレオン・ヒル流のしょうもない自己啓発本を読んだり、ホッブスなどの古い思想書を読んだり、アート雑誌を読んだり、
休憩時間にいつでも自宅が本屋に早変わりってザマだ。
これらは、情報共産主義というグーグルなどに代表される現代風の思想につながると思うのだけど、
ぼくがいま言っている意味でのニューポピュリズムって、ただのテロだし、ただの革命だと思うわけだ。
だって、フランス革命って、これと同じでしょう?
宮本武蔵根性を大きく拡大していけば、革命になるわけだし、それをもっと人気のある坂本龍馬根性とよんでもいいけど、
そしてオウム真理教も革命を起こそうとしたわけだし、結果的にはテロリストになった。
だから、めぐりめぐって、やっぱりお花畑ってのは超危険だし、批判されるのは当然だな。
だからぼくは、これをニューポピュリズムと呼ぶのは辞めた。
テクノロジーの発展によって、つまりグーグルなんかの情報共有の発想と実現によって、
本来の大衆的な革命が見直されるということなわけだ。
情報が共有されないかぎりは、ぼくの「cage out」のような運動って、アカデミズムには絶対に勝てないわけでしょう。
だけど今、メディアにかわってSNSを制しているのは一般大衆で、ブロガーやユーチューバーや芸人なわけだ。
そしてSNSの必須項目であるスマホやインターネットは、格安スマホやSIMフリーによってほぼ完全に格差がなくなっている。