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2017/08/21

いい加減人に年齢をきくのをやめてくれ



人に年齢をきくことは失礼だという誰でも知っている当たり前のことが、なぜ誰にもできないのか?

驚くべきことに毎日必ず、誰かに年齢をきかれるか年齢のことが話題になる。
毎日、必ず。

人に年齢をきかれる度にストレスをかかえることになる。おかげで肌荒れもひどくなる。
初対面で唐突に年齢をきいてくるゴミ屑もいれば、
会う度に「何歳になったんだっけ?」ときいてくる痴呆もいる。
一体全体、年齢がなんだというのだろう。
とかくこの国は年齢による差別意識が高いから、人々は年齢に怯えながら暮らすことを余儀無くされる。
テレビをつければ子供達が水着を着て歌っているし、
大きな企業の受付ほど未成年の女の子がぼうっと座っている。
年齢によってがんじがらめにされた彼らは、毎日毎日、思わぬところで年齢と対峙しなければならない。
就職には年齢制限があり、
「おっ、そろそろ結婚だな」といわれ、
全く関係ないように思えるスマホの契約ですら年齢を記入する欄があり、
年上には敬語を使わなくてはならないし、
アニメの主人公は全員子供で、
アイドルは全員子供で、
モデルは全員子供で、
そのくせ年齢によってはただの恋愛が法定義上レイプになるし、
恋愛対象によってはロリコンと呼ばれたり
熟女好きと呼ばれたりして気味悪がられ、
三十で未婚なら負け組呼ばわりされ、
男性が芸能界で成功するということはすなわち若い嫁をもらう、ということであり、
何歳に見える? と無意味な質問をして、
えええ、見えない! と無意味に気遣いをして、
子供には(まるで犬コロにでも話すように)甘ったれた言葉で話し、
女性に年齢をきくのは失礼だ、というけど、
なぜ男性には失礼でないのかわからないし、
時には結婚適齢期とかいう非科学的な言葉まで出てきたり、
時には出産適齢期というパーソナルなことまで突っ込まれたり、

こう考えると、年齢による差別意識というのは、
半分以上は性差別と結びついているのがよくわかる。
特に女性にとっては、年齢がイコールその人の価値のような錯覚すらしてしまう。

もちろん、儒教・論語的な文化的背景を持つ日本の伝統は素晴らしいと思うが、
個々人の自由な生活スタイルが重要視されるようになってしまった現代社会においては、
まったく足手まといだとしか言いようがない。

こんなちゃらんぽらんな生活をしているぼくだって、
言われることがよくある。
そろそろ腹をくくって結婚だな、とか、
そういうことを。
そもそも年齢と結婚・出産という非常にパーソナルなことを、
なぜ他人に口出しされるのかがわからないが、
それにしたって、よくよく冷静に考えてみれば、彼らが思っている以上に人生は多様なあり方がある。

成人女性の3人に一人は堕胎の経験があるし、
結婚経験者の3人に一人は離婚の経験があるし、
妊娠経験のある女性の3人に一人は流産の経験があるし、
男性の5人に一人は生涯未婚で、
女性の10人に一人は生涯未婚で、
女性の6人に一人は生涯出産経験がなく、
12人に一人は性的マイノリティー(LGBT)だと「自覚」しているし、
5人に一人は同性に魅力を感じた経験がある。


年齢と就職の関係も意味不明だ。
欧米の就職では年齢をきかれることはないし、
履歴書に年齢を記入することもなく、
アメリカでは面接で年齢をきくことは「違法」になる。
ぼくの年齢で就職をしようとしたら、
「この歳までどこをほっつき歩いてたんだ、このボンクラが」
という目で見られながら、言い訳を考えるハメになるし、
子供の頃は、学校で先生と議論する度に
「大人みたいなことを言うな」
としかりつけられていた。

子供をバカにする傾向も意味不明。
小学生なのにすごいね、と言うが、
小学生も大人も本質的には全く変わらないし、逆にいえば
おじいちゃんになったって、おっぱいは好きなままだ。

また、未成年の性的魅力についても隠蔽している。
日本では長らく初潮を迎えた段階で水揚げをし、
また小学生の高学年くらいで筆おろしを経験させていた。
中学生に対して性的興奮を覚えることは恥ずかしくないどころか、全く普通のことだ。
社会的な約束事として、未成年を守るという観点は重要なことだし、
未成年とセックスの問題は話し合わなければいけないけど、
とにかくロリコンを病気呼ばわりすることは彼らの人権に関わることだ。
逆に、
熟女好きというフェティシズムを大々的に捉えること自体が変態的な行為だと思うし、
それで驚いている人々は、色魔、ニンフォマニアックに他ならない。

多くの会社では年齢よりも経験が重視されるにもかかわらず、
さらに実年齢による差から関係は複雑になる。
バイト歴3年の大学生が、
バイトはじめたばっかりの中年にタメ口をきくハメになるし、

もちろん日々の会話においてステレオタイプな感覚がなければ笑いもうまれないし、おもしろくない。
「まるでおじいさんやな」と笑ったり、
「子供じゃないんだから」と叱りつけるのは良いのだけれど、

女子大生が日本酒を飲んでいるだけで
「おっさんか!」
と嬉しそうにヨダレを垂らしながら突っ込む中年男性の視野の狭さと下衆な態度にはもう我慢ならない。
いや、ぼくだってこういった差別的なツッコミというのはよく言うし、
一日に一回は「オバハンか」と大声で指摘するし、
これからも差別的ステレオタイプなツッコミはしていくだろう。
しかし、これらは常にリスクがあることを知っていなくてはいけないし、
差別的な発言であると自覚しなければならない。
黒人差別を積極的にネタにするアメリカのコメディアンの意識と同じようなものだ。



ぼくは大学生の頃に、
「今後一生、人に年齢をきくことをやめよう」と決めた。
それ以後、ぼくはその契りを守り続けてきた。
守り続けていると、周りがいかに毎日年齢についてあれやこれや語り合っているかがわかる。

ほんのすこし前の日本社会と比べてみても、
平均寿命は倍以上に伸びたのだ。
老人というイメージも、健康というイメージも、
ほんの数十年前の感覚とは程遠いものになっている。
プレイボーイの60歳をみたって別に驚きはしないし、
娼婦のような格好をした美しい中学生を見たって驚きはしないし、それを見て普通に興奮するもんだし、
30歳で白髪だらけでも、
40歳で肌にシミひとつ無くても、
15歳で飛び級で大学に行ったって、
50歳で出産したって、
70歳の夫婦に子供がいなくたって、
15歳で子供を産んで旦那がいなくたって、
40歳で大学に通い始めたって、
別になんてことはない。

個人的に、この人はすごいな、とか、
こいつみたいにはなりたくないな、とか、
それだけの話だ。

坂上忍のようなレイシストが、日本のオヤジ的感覚を代弁してくれるのは仕方ないが、
ドナルド・トランプを批判する資格はない。

と、ここまで話してくると、
「日本はだめよねえ。アメリカにならわなくちゃ」
と言い出す植民地奴隷根性丸出しの帰国子女タイプが割り込んでくるが、
こいつらはこいつらでなんの根拠があってそんなことを言うのだろうか。

アリアナ・グランデが日本のテレビで発言した内容をもとに、
好き勝手にまとめあげた記事がツイッターやフェイスブックでシェアされまくってるのを読んだけど、
かんたんにいうと、
日本は太っているという外見を笑いにしたりするけど、
アメリカではそんな低脳なことでは笑わないし、
それが差別だってきちんと理解しているのよ、
って言う感じだ。

日本で無自覚な差別が横行する傾向と芸人の意識の低さには同意するけれども、
アリアナ・グランデにそれを言われる筋合いはない。
ぼくは今年の初めにEDMに関する教則本を執筆して、
アリアナ・グランデをはじめとするプログレッシブ・ハウス周辺の曲を分析して行ったけど、
彼らが歌っている内容っていうのは、
簡単に言えばステレオタイプなアメリカを啓蒙的に示しているものばかりで、
つまり自己啓発ソングって感じ。
ジムで体を鍛えたり、自由に発言したり、
アメリカってかっこいいでしょ? ってなもんだ。
プログレッシブハウス系のアーティストは、大概、トランプ政権に反対しているし、
またLGBT問題について積極的に発言する傾向があるし、
要は、意識高い系の流行りにのっかった人たちなんだけど、
彼らもまたそうした新たなステレオタイプを作り出しているし、
それがある意味差別的であることに気づいてすらいない。

というよりもまず、
上記のような記事は、もちろんアリアナ・グランデの発言とは関係がなく、
執筆者が自分のいいたいことを都合よく解釈して押し付けたものに過ぎないけれど、

少なくとも、
日本では人種差別によって警官が一般人を射殺することはないし、
差別的な発言によってテロを誘発することもないし、
差別的な入国制限をすることもない。

だから、
あんたらには言われたくないわ、と思うわけだ。

差別に対する意識はアメリカに学ぶ必要があるかもしれないけど、
それはつまり、アメリカにそれだけ差別問題が色濃くあるから、という裏返しでもあるわけで、
アメリカには差別がない、なんて隠蔽はしないでほしいね。


ところで、
ある人に対して、
実際の年齢に見えない、とか、
年齢のわりに若い、とか、
年齢のわりに年取って見える、とかいうけど、
年齢相応の見た目をいうのはどういうものだろうか。




この女性が何歳にみえるか、考えてみよう。
15歳、20歳、30歳、40歳、
どうだろう。

何歳だと思う?
ぼくがよく思うのは、
誰にも、これに関して自信がない、ということだ。
血液型占いと一緒で、血液型をいわれて初めて、「やっぱり!」っとなるのだ。
何歳にだって見えるし、
何歳といわれたって、それより若くもみえるし、年取ってもみえる。

これぞ年齢相応の見た目である、というものが個々人の間に確固としてある、なんてことは
実際にはありえないし、あったとしてもそれは毎日のように更新され続けている。

なので、この女性の年齢が実際にはいくつか、

答えはここには書かない。
誰にも当てられないだろうから。










2017/08/10

出会い系アプリから俳句へ、そしてシェイクスピアのinとoutについて


どんなものにも適切な場所、不適切な場所がある。
適切な場所だと思われていても、実はそれはラプンツェル式に幽閉されているだけかもしれない。
逆に不適切な場所だと思われていても、ルーク・スカイウォーカーのように、それこそが自分が進むべき道だという場合もある。



ぼくは普段あまり詩を読まない。なぜだかわからないけど、小説は読むし書くのに、詩はほとんど読みも書きもしない。歌詞はつくるのに。

でもツイッターで短歌や俳句や自由律の詩を載せている人をみると、なんとなく読んでしまう。
たまに、狂ったようにひたすら自作の短歌だけをツイートしている人がいるけど、そういう人をみると「ああ、なんか良いなあ」と思う。
日本の和歌とか連歌って、こういうことだったのか、と理解する。
新潮社の数百円の文庫本を手にいれて、椅子にドガッ座り、エイヤッとページを開き、「蛙飛び込む水の音」といわれても、実感がない。
しかしながら、夕暮れ時の電車の中で、幸福の科学や文春の下衆い広告、立ちながら寝るパンツスーツの女の尻やずっと咳をし続ける歯抜けに囲まれ、LINEとタップル誕生とTinderのメッセージ確認をして、キャンディークラッシュやモンスターストライクの合間に、猫のバズ動画をシェアした後に開いたツイッターで目にする「蛙飛び込む水の音」は、どことなく感じるものがある。出会い系アプリの無料枠が終わったら、140字の自由律詩の応酬だ。


仮に、トイザらスの入店に年齢制限があって、20歳以上じゃないと入れないとしたら。
トイザらスキッズたちは店内で買って買って買ってのだだこねはできなくなるし、たぶん大人は都合の良いオモチャばかり買うことになるだろう。


そういえば、シャーリー・テンプルが自分が出た映画を観に映画館に行ったら、年齢制限があって入場を断られた、
っていう話をエーリッヒ・ケストナーがひどく怒りながら書いていた。
真偽はともかく、誰でも怒るにちがいない。

ぼくも小学生くらいのときに、ターセム・シンの『ザ・セル』を観にいって入場を断られたときは悲しかった。
年齢をクリアしている兄も、ぼくに付き合ってくれて入場しなかった。かわりにパンフレットだけ買って帰る悲しさよ。

ターセム・シンなんていう名前はもちろん知らず、とにかく『アナコンダ』で衝撃を受けたジェニファー・ロペスをみたかったし、ああいった狂った映画を求めていた。

ぼくの兄は携帯電話を持っていなくて、
契約解除された古いアイフォーンを使って、Wi-Fi環境のみで生存しているネット難民だ。
しかし、彼も自分の電話番号というものが欲しくて、携帯電話会社に契約しにいくのだ。
しかし、契約はなかなかものにならない。
なぜなら、契約をする際に、自分の電話番号を記入しなくてはならないからだ。
兄は電話番号が欲しくて契約するのに、
電話番号がなければ契約できない。

様々な話を、in/outという視点から目撃してみよう。
何が内にこもっていて、何が外に飛び出しているのか考えてみよう。

サイゼリヤというファミレスが、ルネサンス絵画を解放していることを例に。



ルネサンス期の画家たちは、誰のために最後の晩餐や処女懐胎や大天使ガブリエルを描いたのだろう。
それはまさしく、字の読めない大衆のためだった。
聖書を読むことができない、一般的な人々のためだった。
聖書の名シーンが描かれた絵は教会の壁や天井に飾ってある。
聖書を読んでいなくても、あとは神父の説教だけで理解できるのだ。
これらの絵を今日、ベネツィアやパリの有名な美術館で観る人達っていうのは、
芸術に興味があり、海外に旅行する財力があり、英語も多少は喋ることが出来て、文化的にリテラシーの高い連中ということだが、
そうではなくて、ルネサンス期の有名な絵画を、サイゼリヤで観る人達のことを考えてみよう。
サイゼリヤ。ばかみたいに安いミラノドリア、安いグラスワイン。
1000円で結構酔っ払える。500円で結構おなかいっぱいになる。
試験期間中の金のない学生、一日中働いて料理をする気力もない若い夫婦、終電を逃した無計画なギャルたち、タバコが吸える店を探してたどり着いた老いぼれ、母親のママ友会に付き合わされて暇を持て余した幼い兄弟、まったく稼げないフリーランスの仕事で一日中ラップトップと格闘するバツイチの中年、PSP仲間でWi-Fiを利用したいだけのニートたち、
彼らが山盛りフライドポテトを待つ間、もしくはペペロンチーノでお腹いっぱいになった時、それか若いカップルがワインのデカンタをもうひとつ注文するかで険悪になった時、
ふと顔を上げると、目の前にあるのはギルランダイオの『最後の晩餐』であり、ラファエロの『天使たち』なのだ。
絵画になんか興味はないし、聖書にいたっては旧約と新約の違いもわからない彼らが、ふと思うのだ。
「これは最後の晩餐というやつだろうか」「全員手でご飯を食べてる」「空を何かが飛んでいる」「どれがキリストだろう」
ルネサンスの宗教絵画が、大衆の手に戻ってきた。
ルネサンスの絵画は、美術史においてあまりにも評価されてしまったため、美術館に厳重に保管され、分厚い防弾ガラス越しにしかみることはできないし、ヨーロッパの歴史ある美術館まで足を運ぶのはほんの一部の文化的に恵まれた人達だけだ。「in」してしまった
しかし、サイゼリヤでは、本来の目的通りに、大衆に解放されている。大衆にかえってきた。本来の目的を達成したのだ。
これが「out」



ぼくはこの度、『cage out』というアルバムをリリースするに至って、
このin/outという考えをまとめていった。
cage inはまさしく、籠に囚われた状態だ。
ジョン・ケージが望んだ自由な解釈が許される楽曲演奏ではなくて、
「ケージとはこうであるに違いない」という権威主義的な、伝統主義的なイメージがはびこっている。
アカデミズムが開かれた音楽を閉じてしまったのだ。
それは誰の責任でもないし、過去や現在の様々な演奏家たちは全くもって素晴らしいし、もちろん「ケージとはこうであるに違いない」と考えて演奏することはまちがっているどころか、すごく正しいのだ。
しかしそれが全体としての空気になってしまうと、とたんに間違いとなってしまう。
「デイヴィッド・テュードアこそがケージ演奏の手本だ」とか、「これこそが正しい演奏だ」と言ってしまってはならない。
だからぼくたちは、これを再び「開かれた音楽」へと戻すために、
「これはケージらしくない」「ケージの曲解だ」「ケージが望んでいない演奏だ」というものを目指して取り組んだ。
なぜなら、ケージの開かれた音楽は、楽譜に指示されたことを守りさえすれば、どんな演奏だろうが正解になるからだ。
逆に言えば「これこそは正しいといえる演奏はない」ということでもある。
ようするにぼくらmacaroomは、ロミオを救い出すジュリエットの要領だ。ロミオを無意味な権威的争いから救い出すために、仮死という危険な作戦に出るわけだ。
つまり、ぼくは現代音楽のファンたちにメッタンメッタンに批判されるだろう。これはケージではない、と。自爆テロともいえる。ロミオとジュリエットが悲劇の内に終わったとしても、つまりまあ、ポップスと現代音楽が共倒れしたにせよ、シェイクスピアの描くとおりに両家が最終的に争いをやめてくれれば、今回の企画は大成功だったといえるわけだ。




JOURNAL170810



思わぬところから仕事が舞い込んできた。
オシリペンペンズのボーカル、石井モタコさんからだ。
石井さんはぼくの兄のカンフーの弟子で、最近大阪から東京に越してきたのだが、
動画制作の仕事をしているということで、ぼくのカンフーの映像を撮りたい、という依頼だった。

撮影は無事に終わったのだが、ぼくも映像制作ができるということで、石井さんの働く会社にリクルートされてしまった。

ぼくは新宿のオフィスに不定期で出勤することになった。
出勤なんて2年ぶりくらいだろうか。

今では関西アングラ界の重鎮、石井モタコさんがぼくの上司になってしまった。

ただ、彼は新婚、新パパであり、新タイトルリリース直後であり、また別件でとある撮影が控えているという激務の最中であった。
かくいうぼくもリリース間近で忙しい。