ロシュフコーは、本の中で恋愛について読んだことがなければ、誰も恋愛をしているなどと思いもしなかっただろうと主張しているし、ロマンチックな恋愛という考え方自体が(そして、それが個人の生活で占める役割の大きさは)、間違いなく、うずたかく積まれた文学の産物である。『ドン・キホーテ』から『ボヴァリー夫人』にいたるまで、小説自体の中にも、ロマンティックな考え方は他の本のせいで生まれたのだという言い方が出てくる。
ジョナサン・カラー『文学理論』より
お馴染みのみんな大好き『激安の殿堂 ドン・キホーテ』のことではない。
ロマンチックな考え方は他の本のせいで生まれた、ということについて。
ミルゲ・デ・セルバンテスの書いた小説『ドン・キホーテ』
『ドン・キホーテ』は聖書に次いで最も出版された本といわれていて、2002年には『史上最高の文学100選』で一位に選ばれた(ノーベル研究所と各国の文学者、批評家などによる投票)。
また、長大な作品なので、「最も有名で最も誰も読まない本」ともいわれており、スペイン語圏のインテリたちは必ず読んだふりをして本棚に『ドン・キホーテ』を飾っているという都市伝説もある。(岩波文庫版だと全6冊)
ぼくも読んだが、合田由の中央公論社Ver.で、完訳ではない。しかしこれでもかなり長い。
『ドン・キホーテ』は、主人公が「騎士道物語」というジャンルの本ばかり読んでいて、もう読みすぎて頭がおかしくなって、自分が騎士だと思い込んでしまい、存在もしない姫を助けに旅に出るという物語である。主人公の本名は曖昧ではっきりとはわからないのだが、そんなことはどうでもよく、とにかく彼は自分が偉大な騎士「ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ」だと思っているのだ。
彼は、姫を助けるために、必死である。普通の人々を魔法使いだと思い込んで突然斬りかかったりするくらい、姫を思い続けている。
彼が姫だと思い込んでいる女性は、当然姫でもなんでもなく、ただの土臭いざっくばらんな女性なのだ。
彼は何をするときも、姫を思う。他の女性が言い寄ってきても決してなびかない。姫だけを愛している。
なぜなら、彼が大好きな「騎士道物語」では、騎士が姫に出会い、恋に落ち、 魔女から救い出すという、だいたいそういう感じの物語だからだ。それは『アーサー王』や他の騎士道物語でもだいたい同じだ。
ところで『ドン・キホーテ』が書かれた時代(17世紀初頭)、もうとっくに騎士道物語という文学ジャンルは流行遅れで、誰もそんな陳腐なものなど読んでいなかった。
同時代でいえば、シェイクスピアなどが大活躍していた頃だもの。
そんな中、彼だけは、読みふける。もう騎士道物語が好きで好きでたまらないのだ。そしてもういてもたってもいられなくなって、痩せぎすの馬に乗って旅に出るのだ。
つまり、一般的には、この偉大な小説『ドン・キホーテ』は、騎士道物語のパロディであると解釈される。
最初に引用したジョナサ・・カラー(およびロシュフコー)の言葉。
「ロマンス」という言葉は、今でこそ恋愛に関するなんらかの状態を指し示す言葉として使われているが、昔は違った。
ロマンスとは、「騎士道物語」を指す言葉なのだ。
元来のラテン的な影響下から抜け出すべく、より大衆を意識した「ローマ的」なる文学がうまれ、それを「ロマン」や「ロマンス」などというようになった。
文学で「ロマンス」といえば、一般的には(というか業界用語的には)、「騎士道物語」のことをさす。
ドン・キホーテと名乗る狂った男は、騎士道物語(ロマンス)の読みすぎで、姫(だと勘違いされている女)を魔女から救い出そうとし、人生を台無しにし、家族から心配され、他人から嘲笑された。
ドン・キホーテ(と名乗る人物)の家族にとってみれば死活問題である。
自分の子供が、ある日急に自分が騎士などと抜かしはじめ、四六時中姫を追い求めている。これは完全に騎士道物語のせいである。なので家にある騎士道物語という元凶をすべて処分するに至る。
結果的に、ロマンスという言葉は恋愛を指し占めす言葉へと変化した。
小説がなければ、私たちは本当に恋愛なんかしていなかったのかもしれない。
すくなくともドン・キホーテにとっては確実にそうである。
なぜか須磨離宮公園にあるドン・キホーテ像。
痩せぎすの馬、手作り感満載のボロボロの甲冑、すっ転ぶ瞬間の描写力など、凄まじい力作だ。
風車を巨人だと勘違いして襲いかかるドン・キホーテ。
ギュスターヴ・ドレ画