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2015/02/22

拙著つくります。

恥ずかしながら、近年執筆していた拙著を文庫化しようと思います。
自分のためだけに少数部だけ発注の予定ですが、もし欲しい方がいらっしゃいましたら売りますので、ご連絡ください。
以下のような感じです。
サイズ : 文庫本
ページ数 : 308ページ
値段 : 2,000円(+税)
カバー/オビ付き
タイトル
『土と壁』
背表紙コメント
「鳥島で意識不明の男が救出されたというニュースが茶の間を賑わせていた頃、放蕩とした生活を送る半次郎に舞い込んできた道路工事の仕事。彼は言われるがままに現場に赴くが、待てど暮らせど工事の仕事は一向に始まらない。ようやく始まった風変わりな土木作業は一件順調に見えたが、半次郎は知らず知らずのうちに日本全土を揺るがす革命へと巻き込まれてゆく。遊び半分で革命に参加する兄弟、土の下に眠る少女、アンドロイドなど、《委員会》に関係する人々の物語を主軸に、絶望とどん詰まりの三十年を経てひとつにつむぎ合わされる破壊と再生の神話を描く。」
備考
本文用紙 : RTライトノベル用紙63kg
表紙用紙 : 紀州の色上質 最厚口
カバー用紙 : マットコート135kg
遊び紙 : 紀州の色上質 厚口
※仕様は変更するかもしれません。




5年程前に書いていた作品は、ひとあし先に文庫化してみた。
こんな感じになりました。





2015/02/07

(大人になるために)イスラム国について語る

まともな大人なら、昨今の世界情勢についてなんらかの意見を持っていなければならない。そうでなければ頭の中は空っぽの腑抜けだと思われ、能無しのアンポンタンだと罵られてしまうからである。
それについて意見をいうとき、当然、自分は正しいということが前提となっている。たとえば、「馬鹿ばっかり」というとき、自分だけは馬鹿ではないということが前提とならなくては言葉が意味を成さなくなってしまう。
そうするとぼくのSNSのタイムラインはもうぐっちゃぐちゃであり、後藤さんは実は生きているだとか、瞬きでモールス信号を送っていたとか、安倍首相は戦争がしたいだけだとか、イスラム国という名称はそれを国だと認めることになるのでよろしくないだとか、決して許されないだとか、すべてはアメリカの責任だとか、涙が止まらないだとか、自己責任だとか、自害すべきだったとか、そういう有様で、「ああこれが民主主義か素晴らしい」と思う反面、「民主主義とはバベル的なコミュニケーション崩壊であったか」と憤慨したり、こちらも全く考えを整理することが困難になる。
しかし何か言わなくてはならない。それが良識ある大人だからだ。
ぼくは有名人でも学者でもないから誰も何も期待していないにも関わらず、何か言わなければならない。
何か言わなければならないが、一体何を言おう。
同じようなことが、選挙の時期にもやってくる。
ああ、また選挙か、投票しなければならない、そしてその投票には何らかの強い意志があって、それをするということが民主主義たる自由なすばらしい社会に三画することであり、立派な大人であるということだと、こんな不純なことを考えなければならなくなる。
しかしぼくは選挙に行ったことがない。
選挙に行かなければこの国のことについて文句を言う権利がないだとか、支持するものがなければ白紙投票すべきだとか、そういう意見に対してぼくは何ら反駁する手段を持っていない。もう黙るしかないのだ。
「父さんはもう選挙には行かんよ」と父は急に電話で言ってきた。数ヶ月前に。
なぜかときくと、「多数決という制度はおかしいで」と言う。
じゃあどうするのが良いのかときくと、「そこなのよ、問題は」と言う。
そして年末年始に実家に帰った時に、ある哲学者の本を父から勧められた。
確かにこの人は今の選挙制度に反対していて、この人自身選挙には行かないらしい。
そして民主主義というものの恐ろしさを驚くほどの博識でもって論ずるのだ。
この勇敢な哲学者は、その知識の膨大さと思考でもって、選挙にいかないということを華麗にかっこ良いものにしている。
しかし、知識のないものはどうしたら良いか。
ぼくは当然、イスラム国が登場するに至る詳細な文脈を知らない。
イスラエルとパレスチナの問題もしらない。
冷戦のこともベトナム戦争のこともしらない。
いや、実際、本などを読み、ネットで調べ、時にはそれについて論じたりすることもある。
しかし知っていると自負するだけの自信が全くない。
カリフ制という言葉もつい最近しったばかりだ。
ヒッピーから湧き出たハッカーの文化と、FacebookやTwitterなどの情報共産主義的な態度。
ここに私たち自由な素晴らしい先進国日本のデモクラシーを委ねることにぼくはいささか疑問だ。
何も言わない、という選択肢はないものか。
そうすればたちまち良識ある人々に、それは恐ろしい全体主義の始まりですよと諭されてしまうのか。ディストピアですよ、1984ですよと。
ハーデスさんという、イスラム国の人が日本語でTwitterをしていたことが話題になっていたらしく、先日NEVERでまとめられていたものを読んだ。
そこでは日本のユーザーがハーデスさんに様々なことを質問していて、ハーデスさんはそれに対してGoogle翻訳的なツイートでこたえている。
そこでは、このたびの日本人人質事件に関してとりわけ過熱していた。
安倍さんの中東訪問が正義であったかということ。
日本は難民支援をしただけなのか、それともそれが間接的に最後にはイスラム国への爆弾にかわるのか、ということ。
それに対してハーデスさんは、短く一言、「スイスはなにもしない」と言った。
私たちは知りもしないことについてやたらとやかく言いたがるが、なぜか。
たしかに、一つのことについて意見を言う時に徹底した知識が必要なのであれば、もう誰も何も言えなくなってしまうだろう。そして一部の知識人だけが議論し、大多数は参加できなくなってしまうだろう。そしてそれはこわいことだと思うだろう。
しかしSNSでの混沌としたシェアといいねはその対岸にいるのだろうか。
民主主義は突き詰めれば、次の二者択一しかない。すなわち、「くじ引きか、全員参加」である。
しかしそんなことは現実には不可能であり、
民意をダイレクトに政治に「反映させない」ための仕掛けが選挙制度である。
父一押しの哲学者の意見である。
SNSにはSNSのイデオロギーがある。
それは、「何か意見を言いなさい」ということだ。
しかし高橋源一郎は震災のときに国民全員が何かを言わなければならず、義援金を送るのか、関東から逃げるのか、原発反対なのか、ということに関する意見であり、それは「正しさへの同調圧力」だと批判した。
高橋源一郎といえば、筒井康隆を持ってして「インテリ源ちゃん」といわしめたほどのインテリだから、これが同調圧力であり、民主主義ではないことを訴えるだけの論拠がきっとそろっているのだろう。
しかし普通はそんな知識なんか持っていない。
それに、結局ぼくも何かは言わなければ済まされない質だから。
とりあえず黙る、ということはできないものだろうか。
この度のイスラム国の人質事件に関して、わからない、と答えることはやっぱりかっこわるいだろうか。