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2014/08/22

小説を読むか読まないか

爆笑問題の太田光さんが、自身のラジオで、文学との出会いについて、思春期の読書遍歴について語っていた。それをきいていて、ぼくは、太田光とぼくの読書の遍歴はずいぶん違うんだなと再認識した。
太田さんが若い頃に出会い夢中になった島崎藤村や太宰治は、ぼくも大好きだ。しかし太田さんは島崎の作品をすべて読んでいるのに対してぼくは『破壊』しか読んだことないし、たぶん太田さんは太宰もすべて読んでいると思うんだけど、ぼくは何冊かしか読んだことがない。
今日、日本ではほとんどの人が本を読まなくなった。とはいってもみんなTwitterやFacebookには一日中かじりついているから、活字離れとはいえないけど、本に関していえば、90年代より減少していることは事実みたいだ。これは年齢はあまり関係なく、20代から50代まで、半数の人が全く本を読まない。最も読まれるのが新書で、小説でいえば最も読まれるのがミステリー、次いで歴史小説だ。
太宰治は毎年2万部売れるといういかがわしいデータもあるくらいだから、そこそこは読まれているのかもしれないけど、島崎藤村はもはや誰も読んでいないだろう。

ところで、先日『水曜日のダウンタウン』という番組をみた。そこではゆとり世代がいかに馬鹿かを立証するために、「逆高校生クイズ」が行われていた。つまり、誰が一番馬鹿かを競うクイズである。例によって、珍解答をする高校生をスタジオでみている芸能人たちが大爆笑するという悪趣味な内容だったのだが、そこで以下のような問題が出題された。

アメリカの首都はどこでしょう

それに見事に「ニューヨーク」と答えるギャルにスタジオは大爆笑。
しかしその後、チャラい男が「ワシントン」と答えると、司会者が「正解!」といって、スタジオも「おお~」ってな感じの雰囲気になって次の問題へとうつった。
スタジオの芸能人も、クイズの司会者も、番組の編集スタッフも、「ワシントンD.C.」と「ワシントン州」が全く別のものだということは知らなかったのだろうか。ぼくは番組をみながら、「馬鹿はお前らだ」と思った。
他の問題は「川端康成の作品で「国境の長いトンネルを抜けると○○だった」の○○に入るのは何か」というようなものがあり、アホな高校生たちが「栃木」などと答えていたが、スタジオにいて大爆笑するダウンタウンや陣内智則やサバンナの高橋は果たして川端康成の作品を読んだことがあるのだろうか。

先ほどの太田光さんの話に戻ると、僕がおよそ中学生くらいから本を読んできて衝撃を受けてきた作品というのは、全く傾向が違っている。これは考えてみれば当たり前のことなのだけど、とにかくそれをラジオをきいていて実感した。
たとえばぼくが若いころ衝撃をうけて読みあさった作家というのは、まず安部公房である。
この人は批評家のドナルド・キーンをもって「日本で唯一の前衛」といわしめたほど、文学の最先端をずっと走っていた人である。いわゆる「まともな」作品はほとんどない。その後も、ぼくがとくにはまってきた作家というのは、多かれ少なかれ、その当時の「前衛」や「実験」に近いものが多かった。ポール・オースターやウィリアム・バロウズやイタロ・カルヴィーノ、ウィリアム・フォークナーやトマス・ピンチョンらである。もちろん夏目漱石や三島由紀夫やサリンジャーやヘミングウェイを読めばとてつもなく感銘を受けたし、彼らの作品の読書体験はぼくの人生の中で素晴らしいものになったことは間違いないのだけれど、しかしなんというか、いわゆる「はまった」というのとは違うのだった。

と、ここまえで書いてみて、先にぼくが書いたことが正しいのならば、こんな長ったらしい文章はおそらく誰も読んでないだろうし、もし読んでいる人がいるとしたらよっぽどぼくという人に興味があるか、もしくは読むことに全く抵抗のない人だろう。だからそれ以外の大多数の人には全く響かないであろうけど、まあいいや。

もちろん小説家というのは常に新たなことを考え模索し戦っているので、多かれ少なかれ、それらはすべて「実験」であり「前衛」だろう。しかし世の中には「あからさまな前衛」というものがあって、簡単にいえば「わけのわからないもの」なのだけど、本当にわけがわからないというわけではなくて、一見するとわけがわからない、という感じの、そういう雰囲気を持った小説、という感じのことなのだ。
たとえば有名な作品を例にとると、作中人物がその作品自体を読んでいるというセルバンテスの『ドン・キホーテ』や、射精から始まる自伝でページが真っ黒に塗られた『トリスタラム・シャンディ』や、言葉遊び甚だしい『不思議の国のアリス』や、意識の流れをそのまま文章にしたプルーストやフォークナーやケルアック、何の教訓を感じ取れば良いのかわからないそして誰も来ない不条理すぎるカフカやベケット、文章をハサミで切ってつなぎ合わせたウィリアム・バロウズ『ソフトマシーン』、メタファーや引用が細かすぎてストーリーそっちのけのナブコフ『ロリータ』、普通の田舎ののほほんとした話なのに普通に人が空飛んだりするガルシア=マルケス、生物と無生物の間を空想科学で書いたサイバーパンク、博学で猥雑で荒唐無稽でストーリーぐちゃぐちゃだけどくそまじめなピンチョン、あり得たかもしれない複数の歴史をパラレルに同時に描くエリクソン『黒い時計の旅』、適当に言葉を並べただけのオートマティスム、全人類の歴史をひとつの家族に凝縮した多国語ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』、何も起こらない探偵小説であるオースターの『幽霊たち』、SFで自伝を書くヴォネガット『スローターハウス5』など、そういう作品に、なぜか特別に魅力を感じてきたように思う。

しかしそれはあたりまえのことで、人によってなんとなくの好みがあることは何の主張にも値しない周知のことだろう。

しかし今や本を誰も読まないので、そうした個人の好みは無視され、本を読むというだけで「読書家」と呼ばれ、どことなくまじめな印象を与えるのだ。ぼくは中学生の頃、学校で漫画を読むと先生に取り上げられるにも関わらず、授業中にいくら安部公房の小説を読んでいても取り上げられないことに甚だ怒り心頭であった。いや、テスト中に一度だけ取り上げられたことがあったが、すぐに返却してもらったし、全く怒られなかった。一方で『いちご100%』を読んでいた生徒は取り上げられて怒られたあげく結局返却してもらえなかった。『いちご100%』と安部公房の『密会』のどちらが中学生にとって教育上好ましくないもしくは不道徳もしくはエロいかと問われれば、どう考えても安部公房に違いないことは断言できるのだが。

アメトーークという番組で、『読書芸人』というのをやっていたが、全くもってこの状況を露呈している悲しい企画だった。なぜなら漫画やアニメでは『ガンダム芸人』や『エヴァ芸人』や『ジョジョ芸人』など、その作品を愛好する芸人たちが集まりその魅力を話し合う企画であったはずが、小説に限っては「読書芸人」という趣味もへったくれもないくくりなのだから。蓋を開けてみるとそれぞれの芸人が今まで触れてきた本には決定的に隔たりがあって、全く相容れない読書遍歴を持ち合わせているにも関わらず、まるで全員が同じ気持ちでわかりあってでもいるような嘘っぱちの演技で持って「読書は素晴らしい」ということを謳っていたのだ。
今や小説に関していえば、読書は「するかしないか」の二者以外にはありえなく、その中にある細々とした差異など誰も目もくれないのだ。

なのでぼくが今述べたような太田さんとぼくの違いなど、あってないようなものである。