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2012/11/26

フランスのきゃりーぱみゅぱみゅ


ぼくの最近の音楽活動といえばもっぱら、YouTubeできゃりーぱみゅぱみゅのJapan Expoの動画を見て、それからPsyのPVやライブをみて、AKB48の『ギンガムチェック』のPVをみたりすることに時間を費やしているのです。とはいえ、少々だけど金銭が発生するような依頼をうけてお仕事として音楽活動をすることもたまにはあるのです。
もしくはmacaroomという自分自身のユニットでの音楽も続けていて、そのアルバムを制作しているのですが、なにせどんなレーベルにも所属しておらず金銭的なバックアップもないぼくらは、自由の身ではあるものの、とことん貧困にあえぎながら創作活動を続けていくしかありません。
その中できゃりーぱみゅぱみゅという5歳も歳下だけど素晴らしいアーティストをみると、苦虫を噛み潰したような表情で彼女が売れた理由などを考えているしかないのです。
彼女が海外でPerfumeやCapsuleよりも売れてしまった理由というのを考えると、ぼくもmacaroomで曲をつくるにあたって、揺らいでいたところが何かふっきれてしまったというよりはあきらめたというかひとつの信念が固く決まってしまったような気がするのです。その一番重要なところは歌詞です。ぼくはここ最近ずっと歌詞の響きについて考えていて、大好きな哲学の本を読むよりも音声学や言語学の本を読み、PAFFYの歌詞を音響分析したりしていたのだけど、それがこと創作となると、ぼくの中ではある二者択一の道に立ち尽くししまって、そこから先をずいぶんと悩んだものです。その二者択一というのは、ぼくが考えている歌詞の音響的機能を歌詞の中に計算して入れ込む際に、きくときにはそうとは気づかないような程度で実践するか、もしくはラディカルな形で主張していくか、というものでした。ラディカルなものというのは、歌詞を作る際にその手法や主張が最優先されるので、二つの点で問題があります。一つ目は、曲としての良さがおざなりにされる危険があるということ、そして二つ目は曲が難解になってしまうということです。
きゃりーぱみゅぱみゅの場合は、ぼくはラディカルなものになるための架け橋となるような流れのひとつの結果だと思っています。海外からみた日本のストリートカルチャー、とりわけ原宿のファッションカルチャーのラディカルな形でのアイコンとしての彼女自身の魅力がまずひとつあります。これはレディ・ガガのヒットと同じく色ものとして非常に優れているアイドルの根本的魅力だと思います。歌詞においては、それほどではありませんが、人によってはきゃりーぱみゅぱみゅの歌詞を色ものとして、つまり奇抜なものとして好きになるひとはいるかもしれません。しかし音響的機能からみれば非常にまとまっているし、日本語という言語においては、CapsuleやPerfumeよりも自由な印象をぼくは受けました。日本語の意味という点において、Perfumeはクラブ文化、もしくはコンピュータやインターネットの文化を恋愛の物語の中のメタファーとして徹底して使用しています。「視線はまるでレイザービーム」というフレーズや「ワンルームディスコ」というキーワードです。かつて四畳半のワンルームとフォークソングが意図的に結び付けられたものと似ています。インターネットやクラブ(ディスコ)文化と恋愛の融合は、サイバーパンク小説などにみられるもの、最近ではスプツニ子!というアーティストがハイヒールと東北復興マシーンを合わせたようなことと似ています。
しかしきゃりーぱみゅぱみゅの場合はあまり徹底しておらず、「つけま」など最低限のファッションのキーワードがあるだけで、その他は音響的側面に徹した歌詞になっています。つまりより意味のわからない詞、ということです。歌詞は振り付けにも影響を与えますが、『PON PON PON』という歌の中で「PON PON出してしまえばいいの」というとき、彼女はお腹(ぽんぽん)を二回おさえる動きをします。しかしフランスのJapan Expoにおいてはその動きはたとえ同じであっても、お腹という意味での「ぽんぽん」は無意味になり、太鼓のようにお腹を「ぽんぽんたたく」という擬音に変化します。もちろん日本人がそれをみたときも、お腹という意味の「ぽんぽん」と擬音としての「ぽんぽん」は同時に理解される可能性が高いのですが、フランスではそれは擬音としての意味が優先されるのです。音響が言語のもともとの意味を変化させてしまうというのは、その言語の通じない国に行けば当たり前におこるし、たとえその言語の通じる人においてでさえ、それはおこります。しかしその変化を予測して作詞なり振り付けを考えたりするということは、容易ではありません。とくにこの歌はあきらかに「PON PON」という音の響きを優先させながら、「お腹」と擬音の「ぽんぽん」を意味的に解決させないままにしているところが、音響的機能に徹している証拠だとぼくは思います。
なのでぼくは最近はラディカルな形で歌詞を創作していくことを良しとするように考えています。先ほど言った問題点のひとつで、たとえばシェーンベルクの曲が大変つまらないのは、ある種仕方ないことだと思うのです。もしくはマルセル・デュシャンの便器が決して作品そのものについては語られず、それができるまでの経緯や後にどれだけの影響をあたえたかということばかりが話題になるというのは、仕方ないことなのです。もちろんきゃりーぱみゅぱみゅは手法としても主張としてもラディカルかものではなくて、だんだんとできあがっていった流れの中である意味自然に出てきたものであるので、それをつまらない曲だとはまったく思いません。曲としては難解だと感じる人はおそらくほとんどいないでしょうから。